意味は厄介である。意味はいつでも生まれる。ことばがつながると、そこに意味が生まれてしまう。
苗村吉昭「意味への意志」は「小さな娘」がかぶと虫の幼虫をほしがって、スーパーで買ってきて育てることを書いている。かぶと虫はそのうちに死んでしまう(だろう)。それにつづけて苗村は、次のように書いてしめくくる。
この一年の命を短いと思ってはいけない
たとえ卵を残せなかったとしてもその命が無駄だと思ってはいけない
息苦しい世界に捕らわれ続けた生活を哀れだと思ってもいけない
なぜなら
僕らもまた
捕らわれたカブトムシなのだから
ここに、うんざりするくらいの「意味」がある。人間もまた、かぶと虫のように息苦しい生活を生きるものなのだという苗村の人生(?)を重ね合わせ、生きることをの不条理を娘に伝えようとしている。
わかるけれど。
なんだかがっかりするね。
こんなことを言っていいのかどうかわからないのだが、小さなもの(かぶと虫)を引き合いに出して、自分もまた小さなものというとき、「小さい」ものに「共感」しているのかなあ。なんだか自分よりも「小さい」ものを見つけ出し、安心していない? 安心というと変だけれど、「小さい」かぶと虫の人生(?)をことばで定義し、その定義できることに安住していない? かぶと虫よりも、自分の方が「定義」できる(意味づけをすることができる)分だけ、「大きい」というような意識がない?
「意味」がこういう大小の構造をもった上でできあがるとき、私はなんだか、これはいやだなあと思ってしまう。
「意味」になる前の部分はおもしろいと思うのだけれど。
おが屑ごと小さな容器に入れられて一匹三十円で売られている
小さな娘がしきりに欲しがるものだから
一年ばかりしかないこの捕らわれた虫を買い求める
小さな我が家に帰ると僕は小さな子のように小さな水槽に土を敷く
「小さな」が何度も繰り返される。視点がだんだん「小さい」に集約していく。「小さい」にこだわって、そこから何かを育てようとしている。
小さなカブトムシは短い夏のあいだ小さな娘に弄ばれるが
上手くいけば交尾する相手に出会い小さな卵を残してくれるだろう
「小さな」が美しいものに思えてくる。「小さい(な)」がけっして「小さい」ものではないかもしれない、と思えてくる。「小さい」がどこかで延々とつづいていく。そこに何か引き込まれていく。「小さい」が引き込む引力がある。
で、これを「小さい」と思ってはいけない--と念をおされた瞬間、「言われたくないなあ、そんなこと」と私は反発を感じるのである。一生懸命「小さい」にこだわり、それを追い続けてきて、それを「小さい」と思ってはいけない。僕らもまた、カブトムシのように小さい存在なのだからという「意味」でしめくくられたくないなあ。
どうして「小さい」のなかへ暴走していかなかったのだろう。「小さい」を加速させて、「小さい」を内部から破壊してしまわなかったのだろう。あるいは「小さい」をブラックホールにしてしまわなかったのだろう。すべてを吸い込み、放出するブラックホール。「小さい」巨大という矛盾で、「小さい」という「意味」を否定してしまわなかったのだろう。
「小さい」を書き続け、それが「小さい」でなくなったとき、そこに詩があると思う。「小さい」を書き続け、その「小さい」に「流通思想」のようなものをおしつけられたのでは--「意味」はわかるというより、「意味」が「流通思想」に加担しているようで、いやだなあ。
*
北川透「娘腫瘍」は「流通言語」のなかにある「常識」を逆手にとっている。もっとも分かりやすいのが「父腫瘍」。
腫瘍化とは、一つの文化の組織中で、もっとも熱量の高い塊が、ほ
かの塊との親和や連携の関係を断ち切って、自分勝手に成熟しよう
としたり、増幅したり、逸脱したりしようとする時に、過剰に、自
己破壊的に肥大する状態である。その最初のモティーフが父腫瘍で
あり、それに共鳴し、共同戦線を張る熱の塊が母腫瘍である。父と
母の性愛的な結合によって、産みだされるものが息子腫瘍と娘腫瘍
だ。文化にとって腫瘍化は死への道だが、この快楽の死線を走るこ
とによってしか、熱いコブや隆起の陥没は生の歓びを分泌できない。
「文化の組織」を「肉体の組織(細胞)」と置き換えると、腫瘍(がん)の説明になるだろう。腫瘍とは何かという「流通定義」をその定義が流通している生化学の領域から引っ張りだし、北川は、それを「文化」のなかで動かしている。(あるいは「家庭」という「文化形態」のなかで動かして、父親・母親の権力をからかっている。)
「意味」ではなく、「意味」になるときの「論理(ことばの運動)」を利用している。それは、いわば「文化」にとってとは余剰なもの、余分な「熱量の高い塊」のようなものである。「文化」という「文脈」のなかに、一種の腫瘍を埋め込んで、暴走させる。
大事なのは、「意味」ではなく、「意味」になろうとして「動く」ときの、その「動き」方。何と接続し、何との関係を切断していくか。
「ほんとうの意味」は、そういう「運動」のなかにある。「結論」は「意味」ではなく、いわば「排泄物」のようなものだ。排泄しないと「肉体」に問題がおきる。自在な動きがとれなくなる。だから排泄するだけなのだ。
運動--動詞のなかに歓びがある。運動/動詞というのは、固定すると死んでしまう。矛盾した言い方しかできないが、腫瘍には腫瘍の生きる歓びがある。その生きる歓びは「正常な細胞」を破壊し、死にいたらしめるかもしれないけれど、そしてその腫瘍の増殖する歓びは言語化するのがむずかしいけれど(意味の否定だからね)、たしかに「存在する」。
ここには苗村の運動とは別の、明確な「意味への意志」がある。強靱な意志である。「流通システム」に頼らず、自分で動いていく意志、流通になる意志である。それは、まあ、現代詩がそうであるようにけっして流通はしない。だからこそ、そうさせようとするのである。「意志」とは無理強いのこと、わざとのことである。他人に受け入れられたら(流通したら)、それは「意志」ではない。
--と、ここまで書いたら、突然、変なことを思った。
この「わがまま」な北川の詩はフランス人向きかなあ。フランス語に翻訳したら、パリなんかでベストセラーになるかも。フランス語は知らないし、フランス文学も知らないのだけれど、はみだしてしまう物を全部受け入れるのがパリだなあ、と思う。映画でしか知らないパリだけれど。
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