リー・ダニエルズ監督「ペーパーボーイ 真夏の引力」(★★★★) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

監督 リー・ダニエルズ
出演 ザック・エフロン、ニコール・キッドマン、マシュー・マコノヒー、ジョン・キューザック


 まるで舞台劇のように濃密な作品である。
 舞台を思わせるのは、なによりもニコール・キッドマンの演技(化粧/衣装)である。みだらな印象を増幅するカツラをつけ、娼婦のような濃厚な化粧をする。細部を強調することで、観客の視線を細部に引きつける。観客の目の自由を許さない。目がぼんやりすることを許さない。南部の街の広い場所が舞台なのに、何かニコール・キッドマンが登場する狭い空間が舞台であるという印象を与える。事件は過去に起きているのに、それは問題ではなくニコール・キッドマンのいる「いま」だけが問題なのだという印象を与える。
 事件というかストーリーのキー空間に水が絡んでいるのも、舞台が「密室」であるという印象を呼び起こす。ザック・エフロンは水泳の選手だったという役どころなのだ水が重要なポイントになってくるのは必然なのだが、水のなかは(潜っていると)、たしかに密室なのだ。ある意味では誰も手が出せない、そしてある意味ではそのなかだけにいることはできない、やがてそこを出ないと死んでしまうという密室。
 で、映画に誘い込まれるにしたがって、ニコール・キッドマンだけにかぎらず、登場人物の全員が「密室」にいて(「密室」を内部に抱え込んでいて)、それが衝突して「いま/ここ」が動いていくということがわかる。「密室」はこじ開けられたり、誰かを誘い込んでとじこめたりするのだけれど。
 ストリーはある殺人事件の被告が、実は冤罪ではないのか、とういことを証明しようとして動くのだが、事件が抱え込んでいる「密室」をこじ開けようとして、それをこじ開けようとする別の人間の「密室」が開かれるという具合に展開する。マシュー・マコノヒーの「密室」が、「いま/ここ」を複雑にする。人間のほんとうの欲望など、どこにあるか、わからない。マシュー・マコノヒーしか知らさないことであるけれど、彼が冤罪を証明しようとするのは、実は、囚人をすくいだし、彼によって殺されたいという欲望があったからだとも思えてくるのである。「真実」はマシュー・マコノヒーのなかにしかない。それを象徴するように(暗示するように?)、彼は「何かを見落としている。事件は、ほんとうは違っている」とザック・エフロンにいうシーンが、「冤罪」が晴れたあとにある。そこは、ちょっと鳥肌がたつほど、こわい。あ、これから大事件が起きるのだとわかり、私は飛び上がりそうになった。
 ニコール・キッドマンは、ある意味では狂言回しで、彼女はいわば「密室」をわざと他人に見せて、ひとを誘い込む。人間には「密室」がある。見たいでしょ? という具合。それは、「同じ密室(ひとつの密室)でいいこと」をしない? という誘いでもある。
 で、そう思って映画を思い出すと。
 冒頭のシーン。雨の日のカーセックス。水の中の「密室」。「密室の中のいいこと」。それを見た人間が殺される--と、うーん、とってもよくできている。まるで小説みたいと思ったら、原作があるとか。小説の冒頭は同じかどうかわからないけれど……。




プレシャス [DVD]
クリエーター情報なし
Amuse Soft Entertainment =dvd=