西岡寿美子「会話」、粒来哲蔵「萱草」 | 詩はどこにあるか

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西岡寿美子「会話」、粒来哲蔵「萱草」(「二人」303 、2013年08月05日発行)

 西岡寿美子「会話」は、サギ草の球根を植えているとヤマガラがやってきて、その作業を見守っている--ということを描いている。それだけなのだけれど、それがとてもいい。どこが気に入ったののかなあ。自分のことなのに、よくわからない。

きみは
反復作業する動きが好きなのだね
それなら見ててご覧
一人と一羽の付き合いだ
それぞれの思惑
気にならない距離で
ともに時間を過ごすのも悪くない

 ここで、この「一羽」を人間と思うと、それはそれで「付き合い」の理想的なあり方を語っていることになるのかもしれないけれど、そういう「意味」にしたくない。でも、「付き合い」ということばが、妙に印象に残る。
 付き合いって、何?
 西岡は、人間でも、鳥でもなく、植えている球根との「付き合い」を描いている。

床(ベッド)に貝殻も敷いた
鹿沼、赤玉、腐葉の配合土も均し入れた
うららかな春陽を背に
詰めず開けず一球一球土に託し
水苔で覆うまでの気の長い作業だよ

 付き合いとは、ただいっしょにいることではないのだ。相手にとっていちばんいい「あんばい」をつくりだすことだ。西岡は、いま、ここで西岡がしていることを書いているだけだが、実は、そうではない。西岡がしていることは、西岡自身がこれまでもしてきたことであり、西岡以前のひともしてきたことである。その積み重ねが、作業を整える。その整えられたものを、整えられた順序でていねいに繰り返す。そのかわらない「ていねいさ」(気の長い作業)こそが「付き合い」というものだろう。
 「他人」とつきあう、「他人」にあわせる、というよりも、自分自身を整えていく。そういうことなのかもしれないなあ。

きみは三メートル 二メートル
一メートルと近づいてきて
頭を右に左に傾け傾け
何が気に入ったのか
私の指の動きを飽きもせず追う

 いや、私だって追ってみたくなるなあ。そこにはたしかな時間がある。どうしても必要な時間、必然性の時間というものがある。省けない。省いてはいけないものを省かない。それが美しいのだ。
 私は途中を省いて引用してしまったが、何も省かず、何もつけくわえず、淡々と四十分のことを書いている、そのことばが美しい。
 私は西岡のことばに余分なことばをつけくわえてしまった。
 感想を書くのはむずかしいね。
 余分なことを書かず、ただ感想を書いてみたいなあ。



 粒来哲蔵「萱草」にも、余分なことを書き加えてしまいそうだ。とくに、七月の参院選の自民党の圧勝、そしてこれからやってくる八月の「戦争」を思い出す日々のあいだにあって、この詩を読むと、余分なことがいいたくなる。

船べりから鰹を垂らしたまま蒼い海をのぞき込むと、鉢巻きをした八サが海中にいて、じっちゃ、無理すんでねえ、といった。そうだな、と源ザは応じた。源ザは八サのいた海に一本一本野萱草を投げ込んだ。忘れ草というじゃねえか、したが、何を忘れんだべと源ザは呟いて、後から後から花を投げ入れた。遠ざかる鰹の群れにたたき込むようにして野萱草の花は放られ、やがてどの花も源ザの見知らぬ海へと流れて行った。

 忘れられないものがある。忘れられないことがある。源ザにとって、それは八サということになるが、それを西岡のことばで言いなおすと、サギ草の球根を植える手順である。それを実際にするのは西岡であるが、その手順は西岡以前のひとの繰り返してきたことである。そこには、あるものを育てる(いっしょに生きる)という「こと」がある。
 源ザが忘れることのできないもの、それは八サと「いっしょ」に繰り返してきた「こと」である。その「時間」である。

北地-わが養いの乳
西岡 寿美子
西岡寿美子



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