八木幹夫『青き返信』 | 詩はどこにあるか

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八木幹夫『青き返信』(砂子屋書房、2013年07月25日発行)

 八木幹夫『青き返信』は歌集である。私は困惑しながら読んだ。私はめったに歌集は読まないから見当違いの感想かもしれないが、どうも音が「短歌」ではない。

ハイヒール履いてよたよた細い足俺はやっぱり大根が好き

 巻頭の一種である。「意味」はわかるが、繰り返し口にしたいという「音」がない。

フライパン豚肉白菜塩少々炎あがれば中華一品

 その通りだろうけれど「中華一品」という「料理」というよりやっつけ仕事みたいなことばの捌き方に、あ、これは食べたくないなあ、と思ってしまう。「炎あがれば」の「あがれば」が傍観的で愛情がないなあ。料理って愛情だからね。

バカ間抜けすかたん鈍感あほんだら云えば素直に咲く南瓜かな

 うーん、悪口というのは音がおもしろくないと侮蔑になってしまう。それでは南瓜がかわいそう。私は短歌をつくらないので、テキトウな感想になってしまうが、この歌の場合「素直に咲く南瓜かな」という終わり方も、どうかなあ……。「南瓜咲く」と主語+動詞の形の方が、悪口を言われたことの反応としておもしろいのでは。倒置法で南瓜を強調すると、南瓜のもっている「咲く」という動詞の強さが消えてしまう。それが残念。
 どう言っていいのかわからないのだが、何か、短歌と違うなあという思いが残る。

おのおのが名を持つ草を残そうと云えり少年蟻殺す夏

 この歌はおもしろいと思う。「雑草と云えり」までのリズムも気持ちがいいが、そのあとの「少年蟻殺す夏」が情報量が多すぎて、何か違う感じがする。

あけび割れ森に秘めたる少年の獣臭きにおいを覚ゆ

 これも情報量が多すぎる。省略できることばがあるはずだ。省略して、音をもっと「日本語」に近づけると短歌になるのになあ、と思う。
 詩の長さが抱え込む情報量を短歌に濃縮するのではなく、きっと短歌は短歌のリズムで情報を捨て去って音を響かせるのだと思う。音を肉体に取り込むのだと思う。

水ひたす女医の手にわかに輝きぬ黒鞄より聴診器だす

 この歌など、とてもおもしろい情景を呼んでいるのだが「水ひたす」がじゃましている。鞄から聴診器をだすとき女医の手が突然輝く、だけでいいのでは? どうも「短歌」の長さが八木の「文体」になっていない感じがするのである。「短歌」にするには八木の陣感はストレートすぎる。うねりがない。そして、そのうねりの欠如した分を、別なことばで補おうとしている。つまり「余分」を書いてしまう--そういう印象が残る。

小便のちかき体を持て余しバケツを提げて旅せる茂吉

 この歌でも「持て余し」が「余分(余剰)」。「もてあます」かどうかは言わなくて、「体なれば」「体ゆえ」ば「批評」がない分、すっきりと茂吉が浮かび上がる。「持て余し」という「批評」に八木の個性がでていると言えば言えるかもしれないけれど、そういう「批評」を加えなくても、茂吉の姿をそう描くだけで「批評」になり、「余分」がないと「批評」は愛情にもなるのだけれどねえ……。

ビー玉のガラス透かして「星当て」に興じし友よ今どこにゐる

 これも「長い」。「今どこにゐる」の「ゐる」が余分だし、「今」以下そのものがいらないかもしれない。

性にふれる言葉ばかりを探しゐき盗み読みする兄の書棚に

 これも「探しゐき」はなくてもいいよね。ない方が「盗み読み」の感じがする。「盗む」は「探す」を含んでいるからね。その分、もっとていねいにみつめるところがあるはずなのだと思う。ていねいにみつめて、そこでことばをうねらせると短歌になるのになあ、と思う。

 と思っていると。
 「壱岐--入沢康夫に」という歌くらいから「調子」が変わってくる。「短歌」の響きになってくる。上手になった?

汝が出雲汝が鎮魂の旅なりやパイプ燻らせ院の墓所へと

 「パイプ燻らせ」が「余分」ではなく「起承転結」の「転」のようにうねっている。そして「墓所へと」と「行く」(向かう)という動詞を省略することで、八木の肉体と読者(私、谷内)の肉体が重なるのを感じる。八木が行くのだけれど、私の肉体もいっしょに動く。そしてその動きには入沢も重なる。
あ、これだね。これが短歌というものだねと思った。

外つ国の言葉も知らぬ妻セツの語りし怪談そを聞くヘルン

 この歌にはセツ、ヘルンという二人が出てくるけれど「外国語を知らぬ」という動詞が、読者を引き込む。「わかる」と「わからない」のあいまいな世界へ、八木はどっちの立場で入って行ったのか。ね、誘われるでしょ?

ほれ鴎 よく似てるっしょ 鴎島指さす子らの訛り清しき

 「清しき」は「批評」かもしれないけれど、茂吉を読んだ「持て余し」に比べると、余計なお節介、という感じがない。お節介ではない批評を、きっと「感動」と呼ぶのだと思う。「清しき」には感動が凝縮しているのだ。

 あ、書きそびれた。

霧吹きて布目ととのうアイロンの舟行く楽し水はじくとき

 これは八木の感想なのか、八木の父がそのまま言っていたことなのかわからないけれど(父の言ったことを覚えていて書いたのだと思うが)、これは美しいなあ。ここには実際にアイロンをかける肉体が直接みる「世界」がある。アイロンをかけたくなるでしょ?

カシミヤもアルパカもみな外国の地名動物しめす生地の名

 これも「生地」という具体的な暮らしのことばによって美しく輝く。お父さんが好きだったんだなあ、ということがよくわかる。

 それやこれやで、複雑な感じ。気に入ったところだけ書けばよかったのかもしれないけれど。

八木幹夫詩集 (現代詩文庫)
八木 幹夫
思潮社