岩尾忍「鋏と紐」3 | 詩はどこにあるか

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岩尾忍「鋏と紐」3(2012年11月15日発行)

 岩尾忍「鋏と紐」は個人誌。何編かの詩が掲載されているが、それぞれにタイトルがない。■がタイトルのように掲げられているのだが……。
 その6ページからはじまる作品。

一面の砂地の上に
点々と立ち並ぶ
これら
さまざまな梯子の

あの一本 この一本に
「そうではない」と刻み
赤い また青い線で
「わかりませんでした」と記し

頭や肩などをぶつけて
少しだけ汚して過ぎる--
それが
どこまで続くとしても

やがてはその時がくる
私には触れられない
一本の梯子が
私の占めていたこのあたりを襲う

 安部公房の「壁」を思い出した。「壁」の主人公は「壁」になって成長していくのだが、岩尾の描く「私」は「梯子」になって成長する(生きる)ということか。
 で、それは、いいのだけれど。
 いや、よくもないのかなあ。
 私はこの作品が好きだが、どうも最後が落ち着きすぎていて、「うまいなあ」と感想を書いたらもう書くことがなくなってしまったような気持ちになるのだ。
 で、これは、まずい。
 詩は、「うまいなあ」という感想でおわるものではないはずなのだから。

 どこが「うまい」のだろう。
 2連目の、「そうではない」と「わかりませんでした」、だね。ここでは「そうではない」ものが何かわからない。「わかりませんでした」というときの「対象」がわからない。隠されている。隠されたまま、それでも、ことばは動く。
 このとき、私たちは「対象」が何かはわからないけれど、別のことはわかる。何がわかるかというと「そうではない」と否定する「意識」がそこにあること。そして「わかりませんでした」と答える「意識」がそこにあるとこ。
 こういう「そこにある意識」というものを、ことばだけで動かしつづけるとベケットになるのだけれど。というのは、私の「脱線」。
 詩に戻る。「そこにある意識」というのは、ことばにすると、そこにあるように見えるけれど、実際はよくわからないね。「そこにない意識」とどう違うか。まあ、どう呼んでみたっておなじだね。つまり「そこにある意識」と言ったって、「そこにない意識」と言ったって、同じように「そうではない」「わかりませんでした」とことばを動かすことはできる。
 「ない」ものが「ある」と断定して、その「ない意識」が「そうではない」「わかりませんでした」と判断する(?)というのはなかなかおもしろいテーマなのだが、そこまで岩尾が考えているかどうか、ちょっとわからない。というのは、またしても私の「脱線」。
 ふたたび詩に戻る。とりあえず「そこにある意識」というものを仮定するのだけれど、それってどうしても「ことば」だけで、このままだと、どうも「頭」が落ち着かない。私の「頭」は、こういう抽象的なものを持続して動かすことができない。
 そこへ、3連目。

頭や肩などをぶつけて
少しだけ汚して過ぎる--

 いやあ、いいなあ。この2行は。「そこにある意識」でも「そこにない意識」でもいいのだが、そういう「ある」も「ない」も「ことばの運動」に過ぎない(過ぎない、といってはほんとうはいけないのだけれど、ここは、方便)。
 それに対して「頭」「肩」。これは「肉体」そのもの。頭も肩も、私はしっかりと知っている。で、それが何かに「ぶつかる」ということも知ってる。ぶつけたときの肉体の反応(痛い)もしっかりと覚えている。痛いだけではなく、「なぜここにこんなじゃまなものがあるんだ」とひとりで怒ったことなんかも覚えている。「意識」はどこにあるかわからないし、あるかないかもわからないけれど、肉体が「ここ」にあることはわかるし、その肉体はいろいろなものを味わってきたこともわかる。そして、その肉体の「わかる」が「ぶつけて」から「汚して」への、とんでもない「飛躍」を結びつけてしまう。
 何かにぶつかる。その衝撃によって「肉体」はよごれる。それが「痛い」という感覚の発生か。でも、そのとき、もしかすると「肉体」をぶつけられた「対象」もまた何らかの形で影響を受けている。つまり「よごれている」ということはないだろうか。
 対象と肉体の出合い。それは、互いによごれることである。
 そう知っているからこそ、そのよごれを回避するようにして「そうではない」「わかりませんでした」ということばが動くのだろう。
 こういうことを「頭や肩」という「肉体」をつかって、肉体をあらわすことばでしっかりとつなぎとめているところが、実に、うまい。こういう「肉体のことば」に人間は(私だけ?)は、とても安心するのである。
 「そこにある意識」「そこにない意識」という問題よりも、「ぶつける」から「よごす」までの飛躍と接続の方が、哲学の問題としては重くて複雑だと思うけれど、まあ、そういうめんどうくさいとこは省略して、ぱっと書いてしまっている。
 いやあ、ほんとうに、いいなあ。

 で、そうやって感心したあと、最後の詩の閉じ方が、あまりにも整然としている。

私の占めていたこのあたりを襲う

 この「このあたり」というのは、とてもあいまい。あいまいなのだけれど、「私」がいて「このあたり」ということばが動くとき、うーん、それがわからない人間というのはいない。「肉体」がある「このあたり」というものを、だれもが「場」として、特定できないにもかかわらず「肉体」を手がかりに、感じてしまう。それを逆手にとって岩尾は「このあたり」と言うのだが、その「このあたり」と「私」が結びつくとき、何かが、一瞬のうちに反転してしまうような気もする。つまり「このあたり」とは「私の外としての場」ではなく、「私の内部としての場=意識」というものをも呼び覚ます。
 で、その瞬間、世界が一気に結晶化する。
 うまい。うまいけれど、整然としすぎていて、そのあとのことを読んでしまったあとの私のことばは考えようとしない。考えなくてもすむように、世界が整然とととのえなおされたという印象が残る。 
 



箱―岩尾忍詩集
岩尾 忍
ふらんす堂