ジョン・キャメロン・ミッチェル監督「ラビット・ホール」(★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 ジョン・キャメロン・ミッチェル 出演 ニコール・キッドマン、アーロン・エッカート、ダイアン・ウィースト

 ニコール・キッドマン主演の「ドッグヴィル」(★★★★)は映像の情報量を「舞台」的にそぎ落としたおもしろい映画だった。
今度の「ラビット・ホール」は映像情報量が多くてというか、ことばの情報量が少なくてちょっと困る。たとえば、ニコール・キッドマン、アーロン・エッカートの住んでいる家。これだけの家に住むにはどういう経済状況が必要なのか――そういう変なところが気になってしまう。すごく裕福そうなんだけれど、理由が全然説明されない。まあ、説明はなくてもいいのかもしれないけれど。あふれかえる「裕福な家庭」の情報のなかで、ニコール・キッドマン、アーロン・エッカートが「ことば」抜きで苦悩するのだけれど、その「こころの声」は2人がどんなに頑張っても背景の「裕福家庭」にのみこまれて、非常に薄まってしまう。これでは、映画にならない。どんなに顔のアップがあっても、妙に「薄い」のである。
ニコール・キッドマンが加害者の少年と密会するシーンは、とても象徴的だ。何もない公園で会い、「パラレルワールド」(ラビット・ホール)の話をするのだが、それまでのシーンが「ことば」のない「顔」でみせる映画だったので、ここも同じ路線でストーリーを展開するしかないのだが、そうすると「情報量」が少なすぎて、どこを見ていいか分からなくなる。少ないことば、その少なさを補う顔(表情)。うーん、無理だなあ。
こういうシーンは、舞台で「しゃべりまくる」方が、「過去」が噴出してきておもしろいだろう。だって、「パラレルワールド」を「ことば」で説明するんだから。(漫画も出てくるけどね。)その「ことば」を引き継いで、ニコール・キッドマンの「ことば」が「過去」から「未来」へ動いて行かないと、何をやっているか分からない。顔(表情)で「過去」を「未来」へ動かしていくのは、とても難しいと思うなあ。
繊細な演技ではなく、激動の演技。その「激動」が、完全に欠けている。――つらい「過去」を乗り越え、「未来」へ歩み出すというのは、激動だよなあ・・・。

で、最後がね。映画じゃないでしょ? 芝居でしょ? パーティー(食事会?)でどんな話をするか、どうふるまうか、「ことば」でストーリーを動かしている。時間を動かしている。顔(表情)は一歩引いている。
妙に、ちぐはぐなのである。映像の情報量と、ことばの情報の関係が、しっくりいっていない。「芝居」にして、「激動」を見せた方が、悲しみが静かに浮かぶと思う。




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