古崎未央「椀の中」 | 詩はどこにあるか

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古崎未央「椀の中」(「臍帯血withペンタゴンず」(1、2011年09月10日発行)

 「臍帯血withペンタゴンず」は、名前からして凝っているが、そこに集う詩人たちもそれぞれにことばに対しての「凝りよう」があるようだ。
 古崎未央「椀の中」の出だし。

後ろから浸り、百日紅に槍、吾の坊の棒もしなり、左、見遣り依頼、落雷の方に猿とモヒカンが卑猥に絡まりY・Y・Yの字、袋小路に去り、然りとて頭髪を剥ぎ、貼り、裸足から抜いてもぎもがき、解ぎ、炎の仄かの放り解ぎ、紛れもあり塗れ、揉まれ鹿尻、つるてんとした尻々。

 最初は不思議な尻取り。脚韻(?)といった方がいいのかな?
 ひた「り」、さるすべ「り」、や「り」、しな「り」、ひだ「り」、みや「り」、からま「り」、さ「り」、しか「り」、は「り」……という具合。
 「意味」は、まあ、だいたいのところを感じればいい--なんて、いいかげんかもしれない。「だいたい」の意味もなんにもないなあ。ただ、音があるだけである。
 「いらい」「らくらい」とか、「ひわい」「わい」「わい」「わい」。
 「猿とモヒカン」が出てくるが、まあ、その猿とモヒカンが「卑猥に絡まり」、セックスしている--と思いたければ思えばいい。「猿」は単にあとで出てくる「去り」の呼び水に過ぎないし、「モヒカン」も「頭髪を剥ぎ」の「頭髪」を呼び込むためのことばだろう。--いや、これは正しい順序ではないな。「猿」と書いたから「去り」が呼び出され、「モヒカン」と書いたから「頭髪」が出てきたのだろう。「去る」や「頭髪」を予定していて、「猿とモヒカン」を書いたのだとしたら窮屈でおもしろくない。
 で、思うのだが、古崎は、ことばを「音」を頼りに動かしていくとき、それはどこまでイメージをひろげられるかということを調べ、古崎の肉体でおぼえようとしているのだと思う。つまり、肉体でおぼえることで、肉体をつかうようにことばをつかえるようになる。そういう力を拡大するために、ことばを動かしていると思う。そして、そう思ったとき、この「猿」から「去る」、「モヒカン」から「頭髪」へのことばの連絡はちょっとおもしろくない。
 「卑猥にからまり」「Y・Y・Y」もあまりおもしろいものとはいえない。古崎の世代はどうかはしらないが、私の世代では「Y」はおんなのからだをあらわすときの暗号で「WXY」と上からおっぱい、へそ、股という意味で、これではセックスとあまりにも安直に結びついて、詩を読んでいる感じがしない。
 詩は、読者の知らないことが書いてあってこそ詩なのだ。

 「解ぎ」を古崎はなんと読ませるつもりで書いているのかわからない。「ほぐす」から派生した「ほぐ」? それとも「もぎもがき」お音を頼りに読むなら「がぎ」、あるいは「かぎ」?
 まあ、そういうことは、私はいいかげんなままにしておいても平気なので、そのままにしておく。
 最初、「尻取り(脚韻?)」でことばを追っていた古崎だが、「頭髪を剥ぎ」くらいから、頭韻(?)がまじる。
 「は」ぎ、「は」り、「は」だし。
 そのあと、「もぎもがき」--あるいは「ぬいても/ぎもがぎ」? あ、「ぬいても/ぎもがき」の「ぎもがき」と、いい音だなあ。非常に「肉体」がくすぐられる。私の場合は。そのあと、読み方のわからない「解ぎ」があって--まるで、「万葉集」の「わがいもがいたたせりけむいつかしがもと」(正しい?)みたいな、わけのわからない部分をはさんで。
 「ほ」のお、「ほ」のか、「ほ」おり「●」ぎ、「ま」ぎれ、「ま」みれ、「も」まれ。あれっ、「ま」じゃなくて「も」。途中飛び越して「も」ぎ「も」がきとつながりながら、全体としては「ま行」のゆらぎになる。「ま・み」れ、「も・ま」れ--とか。
 そのあと、また、これはいったい何? 「鹿尻」。
 どうでもいい。わからないままでいい。わからないものをはさんで、ことばというか、音はまた再出発するというのが、古崎の「流儀」のようだ。

その尻皮を剥ぎ、皮を浸した真水が真緑。紛れもなく真緑。迸り網走、筋の張った尻が走り今治、非理と非理が虚空を有して吾の嬢の黒髪真緑に。

 「ま」みず、「ま」みどり。「ま」ぎれもなく。
 これ、何かなあ。
 その前には、紛れも「あり」。いまは、紛れも「なく」。「あり」「なし」。ことばが逆戻りしていくね。何を書いているのかわからないが、そのことばの運動は、まっすぐにどこかへ進んでいるというよりは、あっちこっちうろついて、もどったりもする。そういう世界のようだ。
 「ほとばしり」「あばしり」「いまばり」というのもおもしろいなあ。あいだには、「はしり」もなあるなあ。
 網走なら、やくざ。やくざなら、「筋」をとおすかどうかが問題だ--はちょっと脇においておいて。刑務所なら、男色。「尻」--も脇においておいて。
 ほとば「尻」、あば「尻」が、ほら、鹿「尻」にもどっていくでしょ? 「尻」に重点がうつっていくと、いま「ばり」の「ばり」は「ゆばり」。「尿」。だんだん、汚物に塗れてくるねえ。(塗れ、というのは、最初に見た部分にあったなあ。)「ひり」は「屁をひる」の「ひり」。「糞をひる」の「ひり」。

 私の書いている感想は、論理的ではない? 道理にあわない?
 だから「しり」ではなく「ひり=非理」なのか。
 あらら。
 でも、おもしろいなあ。こんなふうに、でたらめに(ごめんね)、ことばを動かして、そのことばが動いている瞬間瞬間に、書かれていることとはまったく関係ないことをかってに考えるというのは。「音」と「音」、「声」と「声」がかって呼びあって、ああでもない、こうでもないというよりも--無意味な笑いになっていくのは。

 だから(?)。
 最後に苦情(?)。批判、かなあ。
 「黒髪真緑に」。これは、つまらないなあ。「緑の黒髪」という常套句にもどってしまうじゃないか。
 この「常套句癖(?)」は、詩の最後で「忘れたことさえ忘れる」という、とてもつまらないものをも呼び寄せてしまう。
 「音」だけで突っ走りはじめたら、最後まで「音」そのものであってほしかった。