江夏名枝『海は近い』(8) | 詩はどこにあるか

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江夏名枝『海は近い』(8)(思潮社、2011年08月31日発行) 

 私は同じことを、それこそ「複製」しているだけなのかもしれない。どこまで書いても、私の感想は終わらないかもしれない。私はどの感想も、何の結論も用意せず、ただ書けるところまで書くだけなのだが、その方法では、江夏の詩集の感想は終わらない。私のことばが動かなくなり、終わるのを待っていてもだめなのだ。私自身で終わらせないことには終わらないのだ。
 やっと、そのことに気がついた。--だから、これを最後に、終わらせる。

 「海は近い」の「11」の部分。

 わたしたちはたがいに遠のくこともあった。わたしたちは想い、そして忘れる。距離を得るためにその場所に幾度も足を運び、全身を嗄らす。

 「遠のく」は「想い(う)」という動詞で「複製」され、それは「対」の形で「忘れる」という動詞で「複製」される。「想う」のは「忘れた」から「想う」のである--というと語弊があるかもしれないが、「いま/ここ」にないから「想う」のである。対象と「距離」がある。「わたし」と「もの(存在)=対象」とは「離れている」。この「離れている」ことを「心」を主体にして見つめなおすと「忘れる」ということになる。「心」に密着しているとき、それは「忘れる」ではない。
 だが、「心」を強くするというか、「想い」を強くするためには、「離れる」ということも必要である。「距離」があるとき、「心」はその「遠いもの」を「心のなか」に「複製」する。「反復」する。そうして、そのとき、

ここに現れる

 ということが起きる。
 「心」の「ここ」に、「心の複製」があらわれる。あらゆる複製があらわれる。
 「その場所」は「ここ」である。「ここに現れる」と江夏が書くときの「ここ」。
 「その」と「ここ(この)」は同じものではないが、やはり「対」なのだ。「ここ(この)」があるから「その(そこ)」がある。

 書きたいことが山ほどある。書かなければならないことが山ほどある。
 でも、「やめる」「終わらせる」と決めたのだから、少しだけの補足にとどめる。
 いまの引用の部分では、

全身を嗄らす。

 これがなんともあいまいである。不自然である。この「全身」には、実は、先立つことばがある。

 身体がざわめいている……棘をぬくために、もうひとつ身をほどく。

 「全身」「身体」「身」--つかいわけられている。そして、そのつかいわけを支えている(?)のが「ほどく」ということばである。
 「身」は人間には「ひとつ」である。それは「心」とちがって「千々に砕けたり」はしないし、「心」のようにこんがらかることもない。
 「ほどく」ということは「身」にとっては「矛盾」したことばである。「矛盾」した表現である。だからこそ、それが「思想」である。
 「身」は「身」ではないのだ。江夏にとって、それは「心」という「言葉」で「複製」された「わたし」なのである。

ここに現れる

 のは、ある瞬間は「身」であり、ある瞬間は「心」であり、それはともに「言葉」によって「複製」された存在である。そこには「隔たり」はない。「隔たり」はないけれど、「身」という「言葉」と「心」という「言葉」はちがって存在してしまう。
 この「矛盾」をどう解消するか。

 わたしたちは言葉を脱いで眠る。

 あ、たしかにそうするしかないのかもしれない。
 けれど、よく読むと--これは、とても変である。とんでもない「矛盾」である。

 わたしたちは言葉を脱いで眠る。

 この1行も、「ここに現れ」た「言葉」である。つまり「心の複製」である。これでは、終わらない。だから、これで終わりにする。




海は近い
江夏 名枝
思潮社