前半と後半はまるで別の映画である。後半は面白い。だが前半が退屈すぎる。なぜ、退屈か。妻の殺人容疑、そして有罪の判決が「ことば」だけで語られるからだ。ときどきフラッシュバックで映像もあるにはあるが、それだけでは「ストーリー」である。人間がからんでこない。なんといっても、「無罪」であるエリザベス・バンクスの怒りが描かれないのが物足りない。エリザベス・バンクスの怒り、悲しみが映像化されて、その肉体化された「無罪」にラッセル・クロウがのめり込んでゆく――という形でないと、ラッセル・クロウのやっていることは「絵そらごと」になる。「愛しているから」というようなことは、ことばで話したって「うそ」になる。
まあ、後半も、人間の感情がほんとうに動いて感じられるのは、エリザベス・バンクスが車から飛び降りようとし、ラッセル・クロウがそれを引きとめようとするシーン。それにつづく手と手のふれあいくらいだけれど。
あとは、「有罪」判決を下した裁判に対する怒りも、警察に対する「うらみ」も感じられないし、エリザベス・バンクスにいたっては、刑務所から抜け出せてうれしいのかどうかもよくわからない。「無罪」にならなくても、いいのかな? 納得できるのかな?
わからないなあ。つまり、うそっぽいなあ。
でも、編集がうまい。
シーンが次々に変わるのだけれど、残された時間がなくなるにつれ、「空間」の距離――ラッセル・クロウと追い掛ける警官の距離が短くなる、という構造が面白い。いや、空間がかならずしも縮むわけではないのだが、どんどん縮んですぐ背後に警官がいると感じさせる感じがいい。
時間と空間の区別がつかなくなるのである。
空間を時間が追い掛けてくるのか、時間を空間が追い掛けてくるのか。あるいは、こういう逃走劇というのは、逃げる人間の知能(主人公が短大の教授だからそう思うのか)を、警官の知能が追い掛けてくるのか、一種の「知恵比べ」みたいになり、その「知恵」のなかで、つまり「頭」のなかですべてが入り混じりながら接近するのか。
逃走計画地図をわざと半分だけ発見させる逆トリックが、実に効果的。(原作もそうだったかな? 私はフランス映画を見逃しているかもしれない。思い出せない。)
しかしなあ・・・。
ラッセル・クロウは太りすぎだね。あんなに走りまわったら過呼吸で倒れそう。顔の吹き出物(?)も不健康の印みたい――と余分なことを思ってしまう。エリザベス・バンクスも、なんだか木偶の坊。ラッセル・クロウの父親が、やっぱり父親ならではの息子の理解の仕方をするのが、妙にしみじみとする。
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