高塚謙太郎「屏風集」 | 詩はどこにあるか

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高塚謙太郎「屏風集」(「Aa」4、2011年09月発行)

 詩人はことばを何によって選択するのか。「意味」ではない。「意味」はことばのあとから遅れてやってくる。--というか、どうとでも言い訳がつく、と私は思っている。それは、どんな「意味」もつけくわえなくてもいいということと同じ意味になる。

 高塚謙太郎「屏風集」の「玉響(たまゆら)」の1連目。

似ているようすはいつも花びらの悪寒にゆれているように、身がまえて眠る。見えてくるものがある。

 何が何に似ている? と、考えはじめると、「意味」がわからなくなる。
 だから私はそういうことは考えない。「花びらの悪寒」ということばに惹かれる。そのとき「ゆれている」は「震えている」かもしれない。悪寒で震えるとき、震えをおさえようと、からだをぐっと丸める。その姿勢を「身がまえる」といえば、そういえる。
 そこから、この1連目を、何らかの理由で悪寒に震えながら、眠ろうとしている人間のことを書いているという具合に「意味」化していくことができる。
 そうすると、書き出しの似ているは、悪寒に震えながら、その震えを抱き込むようにして丸くなっているようすは、花びらか散る前に身がまえる姿に似ている--という「意味」になるかもしれない。といっても、それは形というよりは、「意識」の問題である。
 ほんとうに悪寒で震える人間のようすが、花びらが悪寒にゆれているようすに似ているかどうか、だれも知らない。だいたい、花びらに悪寒というものがあるか。そんなものは、ない。あるのは、ただ花びらに悪寒がある、そして花びらは悪寒にゆれると考える意識だけであり、そういうとき人間は、自分のことを「悪寒にゆれる花びら」と思い込んでいることになる。
 --と書いてしまうと、どうなるだろう。
 ことばが、一巡してしまう。「主語」と「述語」が、それぞれのことばを飛び越して違う「述語」、違う「主語」と結びついて、世界を「二重化」する。そして、その二重化は、閉ざされている。
 閉ざされている--というより、世界を閉ざしながら、ことばは、何かに向かって結晶化していこうとしているよう見える。

 2連目。

轍というこの慙愧にみちたのりしろに背をそわせて、沈むまでゆっくりと視力を高めていく。こころから車輪の裏側をおもい、乳房からここの反面をまわす。このいたいけなものほしさよ。

 悪寒にふるえて、身がまえて眠るとき、見えるものが「轍」である。そして、それは「轍」のままでありつづけることはない。「主語」は、「高められた視力」によって「別なもの」に見えはじめる。「轍」から「車輪」へと視力は移行し、その「車輪」は「丸い」形ゆえに「乳房」へと移行する。「轍」がいきなり「乳房」になるのではなく、「車輪」の形をくぐりぬけることで、世界を閉ざし、探しているものへと結晶化する。
 この移行を「心の反面をまわす」といってしまうのは、正直なのか、それともわざとなのか……。
 いずれにしろ「心」と「反面」による「二重化」と、「まわす」とことばで、高塚のことばは、やはり一巡する。その一巡は、もちろん「轍」「車輪」ということばが反映し、加速する。そのため、「このいたいけなものほしさよ。」というスピードを出しすぎてしまって、「余剰」をまき散らしてしまう。飛び跳ねた泥濘のようなものである。

 3連目。

過ぎるうちに遠ざかる、翩翻としながら葉が。その葉が少し前にあった花萼ののどに今でも細く管はのびているだろうか。


 「轍」「車輪」「乳房」と動くことばは、ことばを「過ぎるうちに遠ざかる」。何から? 冒頭の「花びらの悪寒」から。「身構えた眠(り)」から。つまり、「夢」から。
 そんなことを意識しながら、意識は(心は、という方が高塚のことばに近いか……)、「花」にもどってくる。しかし、ただ「花」にもどってきたのでは、世界はおもしろくない。一巡すれば、そこには一巡しただけの何ごとかが反映され、どんなに丸く循環しても最初とは違っている。ことばを書くということは、最初とは違う状態になるのということなのだから……。
 で、「花びら」ではなく「花萼」に。そして、そこから「のど」が突然出てくる。「花びら」「花萼」と花の肉体を下とくだる「視力」はそこに「茎」をみる。「管」を見る。それは人間でいえば「のど」になるだろう。
 いま、ここに書かれていることばは、「悪寒」でふるえる「肉体」の夢と、その「悪寒」のときに目覚める「のど」を書いていることになる。

 --という余分な「意味」は、最初に書いたように、私がかってにつけくわえたものである。高塚のことばのなかへ遅れてやってきた「意味」である。高塚が同じ「意味」を、これらのことばにつけくわえる--あるいはことばに誘われて「意味」を結晶化させようとしているのか、どうか。
 私は、そのことについては、あまり関心がない。
 いいかえると、私の読んだ「意味」が「誤読」であるか、「正解(?)」であるか、どうでもいい。私はだいたい「誤読」したくて読むのだから、「谷内の読みは間違っている」といわれても、ぜんぜん気にならない。
 (あるひとが、私の書いた文章を読み、「読み間違えています。でも、気を落とさないでください」と電話してきたことがあったが、私は、そうか、一般的には作者の書いていることを誤読すると気落ちしないといけないのか、と変なことに気がついて、おもわず笑いだしそうになった。--私は「大学受験」や「入社試験」の問題を解いているわけではないのだから、間違えたってぜんぜん気にしない。)

 脱線した。

 詩にもどると……。
 私は「玉響」では1連目と3連目が好きである。2連目は、ちょっと「うるさい」と感じてしまう。
 1連目、3連目が好きな理由は、そこに出てくる「音」が、なんとはなしに私の肉体には気持ちがいいからである。
 「よ」うす。「ゆ」れて。「よ」うに。その「や行」のゆらぎ。それから「身がまえて」の「が・ま」の組み合わせのなかにある響き。「や行」をゆらいだあとの「が・ま」のゆらぎ--これが、特にきもちがいい。どこか、肉体の奥の、聞こえない「音」を聞いたような気持ちにさせられるのである。
 花「び」ら、身「が」まえる、「が」ある--この濁音の呼応も、私の肉体にはしっかり響いてくる。
 3連目は、その濁音とバリエーション(過「ぎ」る、遠「ざ」かる)にくわえ、「が」が何度も繰り返されるのが、読んでいて楽しい。私は音読はしないけれど、肉体が声を出そうとして動くときの、その感じが、きもちがいい。
 「の」も何度も出てくる。それが「が」と離れながら響くとき、「身がまえて」の「が・ま」の音ととてもなじむのである。(「身がまえて」は「み・が・ま」の動きといった方がいいのかもしれない--と、ここまで書いてきて、急に思う。)
 
 「意味」はあとから、付け足す。まず、音に反応する。私は、そんなふうに高塚の詩を読むのだった。




さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社