監督 チャン・イーモウ 出演 チョウ・ドンユィ、 ショーン・ドウ
美しいシーンがいくつもあるが、やはり最初に見たシーンが一番印象的だ。
少女と青年が飛び石を伝って川を渡る。手をつなぐことをためらっている少女に青年が木の枝を差し出す。木の枝をはさんでの結びつき。川を渡ってからも、ふたりは枝を捨てない。両端の手が次第に近づく。青年の手が少女の手に近づいていく。そっと手に触れる。少女はそれを拒まない。手と手が触れ合って、手を握って、枝は捨てられる。この無言のクローズアップが美しい。
こんな純愛がいまどきあるはずがない――かもしれない。
それでは、いつなら、こういう純愛があるのか。
チャン・イーモウは、文革の嵐が吹き荒れていた1970年代を舞台にしている。これは二重の意味で驚かされる。文革はなんども映画に描かれているが、それは文革を告発するものであった。この映画も文革を告発はしているが、声高ではない。描き方が静かである。これが驚きのひとつ。そして、もうひとつは、文革の時代にも文革とは無関係(?)に恋愛があった、ということである。恋愛に「時代」は関係ない、人間はいつでも恋愛をしてしまうというのは「本能」だから当たり前なのかもしれないが、その「当たり前」を当り前ではない時代を舞台にしたところに驚いてしまう。
文革の定義(とらえ方)はいろいろあるだろうが、チャン・イーモウは、文革を「人が人を監視する」時代ととらえた。「人が人を監視する」という状況のなかで、どうやって恋愛をするか。恋愛というのは個人的なものである。他人を排除して成立するものである。ところが、文革は「人が人を監視する」ということをとおして「個人的なもの」を「ブルジョア的なもの」(走資派)として排除しようとする。恋愛がのびやかに育ちにくい状況である。
だからなのか。純愛、なのである。
そして、この純愛のように、文革の時代にも、普通の暮らしはあったのだ。純愛が、普通の暮らしの、一番純粋な暮らしにみえてくる。人は、どういうときでも「美しく」生きるものである。
その象徴的なシーンが「サンザシの洗面器」。洗面器に模様が描いてあるなんて、なんて「ブルジョア的」。だって、洗面器に絵が描いてあろうがなかろうが、洗面器の「機能」には無関係だからねえ。それでも、人は「美」を楽しむ。そして、青年はそれを見つけて、少女に「手品」をしてみせる。いいなあ。川を渡るときの小枝といい、洗面器といい、ひとはそこにあるものをつかって恋愛をする。気持ちをあらわすものなのだ。そしてそこに、必ず肉体の触れ合いがあるというのもいいなあ。
美しいものを楽しむ――といえば、少女がつくる「金魚」もいいなあ。今見れば(現在の日本から見れば)、つまらないものかもしれない。けれど、恋愛をしているときには、つまらないものなどない。すべてが美しい。すべてが「気持ち」を代弁するからだ。「無言」のなかにこそ、「ことば」がある。――というのが、純愛の必須条件かもしれない。
川をはさんで2人が歩くシーン。両岸での2人のパントマイム。――これは、まあ、テオ・アンゲロプロスの「こうのとり、たちずさんで」の川をはさんでの結婚式へのオマージュだろうね。こういう「無言」のシーンはことばがスクリーンからあふれてくるね。
それから。水遊びと自転車のシーンもいいなあ。ここでも「ことば」ははしゃぐ声だけ。それなのに、「ことば」があふれている。字幕が必要のない「ことば」、翻訳するひつようのない「ことば」。つまり、それは誰もがつかうことば、「肉体でおぼえたことば」だね。肉体関係なんて出てこないのに「肉体」の喜びがある。プラトニックとは、こういうことなのか、と思った。
思い返せば。
「紅いコーリャン」も純愛だったねえ。コン・リーが両天秤で弁当を男のところへ走って運ぶときの美しさ。それから、男がコーリャンを踏みつぶして畑の真ん中に初夜(真昼間だけれど)のベッドをつくるところ。実際のセックスをみるよりドキドキする。「肉体」の声が聞こえてくるからね。
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