大西若人「どこが『美人画』なのか」 | 詩はどこにあるか

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大西若人「どこが『美人画』なのか」(「朝日新聞」2011年08月31日夕刊)

 大西若人「どこが『美人画』なのか」は岡田三郎助の「あやめの衣」について書いた文章である。後ろ向きの、肩肌を脱いだ女性を描いているが、顔は見えない。それなのに「美人画」と言われている。それはなぜ?

 丸みのある顔のライン、赤みが差す耳や頬、そして、さまざまな色彩が重なり合ったきめ細かい素肌。確かに美しいが、着物の部分を隠してみると、急に魅力が減じはしないか。鮮やかな着物が美しいのも間違いないが、美人の根拠にはなりえない。

 「着物の部分を隠してみると、急に魅力が減じはないか。」という問題提起の形でのことばの動かし方が大西マジックである。「減じはしないか」という気取った(口語的ではない)ことばが、これから「大事なこと」を書くぞ、と告げている。
 そして、実際「大事なこと」(魅力的なことば)が次の段落で始まる。

 だが、両者の組み合わせの妙。完全なヌードでもなく、着衣でもない。右肩がのぞく構図は次の動きを想像させ、きぬ擦れまで聞こえそうだ。

 「両者の組み合わせの妙。」という体言止めで、ことばが加速する。「完全なヌードでもなく、着衣でもない。」と否定形をたたみかける。そして「右肩がのぞく構図は次の動きを想像させ、きぬ擦れまで聞こえそうだ。」の文の巧みさ。「想像させ」ということばで、絵を見るには想像力がいるのだと指摘した後、絵にはないもの(視覚では捉えられないもの)、つまり「きぬ擦れ」という「音」を聞かせようとする。聴覚を刺激する。芸術のなかで、人間の感覚が融合し、そこから絵を超える「美しさ」が噴出してくる。
 あ、絵よりも美しい。――絵より美しくていいのか、という疑問が常につきまとうのが大西の欠点(長所)である。

 今回の文章は、しかし不思議だねえ。最後の段落がつまらない。大西の文章でつまらないと感じたのは初めてのことなので、指摘しておく。

 ヌードでもなければ、着衣でもない。顔も見えない。否定形の積み重ねの果てに、大いなる美が肯定されている。

 これは、私が引用した二つ目の段落の繰り返しである。「完全なヌードでもなく、着衣でもない。」「ヌードでもなければ、着衣でもない。」の繰り返しは、あまりにもことばが重なりすぎるし、「否定形の積み重ねの果てに、大いなる美が肯定されている。」という美の数学は、せっかく「きぬ擦れまで聞こえそうだ。」と書いたときの、「聴覚」の存在を見えなくしてしまっている。
書きすぎて、「美」が傷ついてしまった。