ダニー・ボイル監督「127時間」(★★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 ダニー・ボイル 出演 ジェームズ・フランコ、岩・・・よりも水

 予告編を見た時から「ストーリー」が分かる映画であるが・・・。
 あ、ストーリーは、まあ、予想どおりなのだが、その前がおもしろいねえ。アウトドアのための準備がてきぱきと進む。カメラの切り替えがリズミカルである。留守電の母親の声や、クローゼットの棚の上で手が届かなかった折りたたみナイフ、歩きまわる主人公の足の動き・・・。
 特に美しいと感じたのは、水をポットに満たすシーン。
 蛇口の下にポットを置き、蛇口を開くだけなのだが、そうか、水がポットにいっぱいになる時間で準備ができてしまうのか。実際にはそう言うことは無理で、ポットから水があふれているのだが、そのあふれる水を見ても、いま、あふれたばかりなのだな、と感じさせる新鮮さ(?)がある。部屋の中、水道の水なのに、湧き水みたいだ。ポットの底から湧いてくるみたい。
 このあとも、水の描写がとてもすばらしい。
 岩の割れ目から水に飛び込むシーンのブルーの美しさは当然なのだが、チューブで飲む水(栄養ドリンク?)のチューブから肉体へ流れこむ感じ。流動感。水が重要なポイントになる、ということが暗示されている。
 ポットのなかで少なくなっていく水。袋にため込む尿。それを飲む時の液体の流れ。雨。鉄砲水(の幻・・・)。あるいは、コンタクトを洗浄する工夫。
 映画の大半は、狭い場所で、映し出される素材は限られているのだが、そのなかで水だけが激しく変容する。少なくなればなるほど、その表情(?)というか、少ない水に対して強まってゆく主人公の思いがひしひしと伝わってくる。
 その変化の大きさが、狭い空間を限りなく広げてゆく。その広さは、ポットから喉、体内という動きだけでなく、尿を水がわりに飲む場面に象徴的に表れているのだが、「感覚(味)」にまで踏み込んでゆく。どんな極限状態にあっても、人間の感覚は「もの」に反応する。その瞬間、その狭い空間が一瞬消える。「肉体」が抱え込んでいる「宇宙」の広さというか、そうか、人間はこんなふうに「内部」が大きいのかと驚く。極限に閉じ込められながら、「肉体」そのものを探検し始めるのだ。
 それは、たとえばビデオに残っている女性の胸元を見ながら、オナニーをしようか、「いや、だめだ、やめておけ」と苦悩するシーンにもつながっていく。死ぬかもしれない。そういうときも、こんな無駄(?)なことをしようか、しまいか、悩む。変だけれど、人間の複雑さがいいねえ。狭い所に閉じ込められている――ということを忘れてしまう。
 細部へ細部へと視線が向かうほど、人間の「宇宙」が広がる。
 クライマックスの腕を切断するシーンも同じ。岩に閉じ込められていることを忘れる。神経を切断する瞬間の「痛み」。指で触って「痛い」。ナイフでちょっと触れて「痛い」。どうするんだろうなあ。「気絶するなよ」と言い聞かせながら切ってゆくのだけれど、「壮絶」というのとは違うなあ。何か、誰も知らない「人間」の「いのち」の広がりを獲得してゆく感じがする。「狭い」空間を、人間の「いのち」の巨大さが飲み込み、消化してゆく感じだ。
 で、無事(?)脱出したあとも、水の描写があるね。泥水をごくごく飲む。出会った人にもらった水を飲んで飲んで飲んで飲みほす。それからプールのなかを潜って全身で泳いでゆくシーン。ああ、なんて優しくて、なんて気持ちのいい水なんだろう。

 こういう極限を体験した後、人間はどう変わるだろう。もう、アウトドアの楽しみはやめて、インドア派になる? 主人公は逆だ。自分の「肉体」の内部の広がりの中へ、自然の全部を取り込んでしまうかのように、さらに活動的になってゆく。
 いいなあ。そうなんだろうなあ、と納得させられる。
 ダニー・ボイル作品の中では、「スラムドッグ$ミリオネア」よりはるかにおもしろい。「トレインスポッティング」とどっちがいいか――ちょっと判断が難しい。しかし、傑作であることは間違いない。そういえば、「トレインスポッティング」でも、水が美しかったねえ。世界一汚い水洗トイレにドラッグを落とし、それを拾いに水洗トイレに飛び込む――潜水するシーンの美しさ――やっぱり「トレインスポッティング」の方が好きかな、私は。



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