林嗣夫「花」「星座」 | 詩はどこにあるか

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林嗣夫「花」「星座」(「兆」150 、2011年05月10日発行)

 ことばにならないことをことばにしようとする。その矛盾と一緒に詩は生まれる。そして、矛盾の「書き方」にはいくつかある。きのう読んだ河邉由紀恵は「ふわふわの黒いふぁー」という、とてもあいまいなことばをつかっていた。「頭」では絶対にわからないことばである。林嗣夫は、そういうことばはつかわない。あくまで「頭」でもわかることばを追いつづける。
 「花」。

花が倒れた、
といううわさが
いつのまにか広まった

今まで
花のことは忘れていたから
これは小さなニュースである

きっと
深い空のほうに向かって
音もなく倒れこんでいったのだろう

なぜ倒れたのか
倒れることで何が起こったのか

花のなかを流れる時間が
希薄になったためだ、
という人もいれば

花が
花になりすぎたためだ、
という人もいる

いずれにしても
花が倒れることで
世界は一瞬 見通しがよくなったのではないか

しかし
やがて
花が倒れることで空は空の色を失い

風は風ではなくなっていくだろう

 わからないことばはひとつもない。けれど、わからないことはたくさんある。まず、「花」。これは何だろうか。バラ? 菊? 百合? ひまわり? わからない。抽象的である。
 林のことばは簡単なようであって、簡単ではない。直接「頭」に働きかけてきて、「頭」の運動を「抽象」で洗う。「抽象」の世界へと整えていく。
 3連目が特徴的である。
 「深い空のほうに向かって/音もなく倒れこんでいったのだろう」。ここに、「矛盾」が出てくる。「倒れる」というのは立っているものが地に倒れるのである。「空のほうに」倒れるとは「流通言語」ではいわない。「空のほうに」草花はのびる。(木々はのびる。)空のほうに「倒れる」ことはできない。
 できないこと、不可能なことが書かれているので、「頭」は刺激される。どういうことだろう、と考えはじめる。
 「倒れる」には「立っているものが(垂直の状態にあるものが)、地面にその体(?)を横たえること(水平になること)」以外の意味もあるのではないか。
 たとえば「倒れる」には「死ぬ」ということばが含まれていないか。「倒れる」が「死ぬ」なら、死んだ人が「空(天)」へのぼるという言い方をするから、「深い空」へと「倒れる」と「比喩的」に言うことは可能なのではないのか。
 「花」はもしかすると「比喩」かもしれない。バラ、菊、百合、ひまわりというような具体的な「花」の名前を省略したことばではなく、「比喩」である。それは、「誰か」なのかもしれない。花は「比喩」であり、「象徴」なのかもしれない。
 そう思うと「空のほうに」というのもわかる。また2連目の「小さなニュース」というのもわかる。誰それのことを話題にすることはなくなっていた。忘れていた。その人が「死んだ」という知らせとともに、思い出されているのだ。ひとしきり話題になるのだ。
 「比喩」「象徴」とは、ことばの「言い換え」でもある。「頭」で「現実」の存在を思い浮かべながら、それを「別のことば」で言い表す。そのとき、ことばはとても「抽象的」になる。

花のなかを流れる時間が
希薄になったためだ、
という人もいれば

 「花の中を流れる時間」「時間が/希薄にな」る。この「時間」のことを、具体的(?)なことばで言い換えることはむずかしい。林が、花の中にある「何」を「時間」と言い換えたのか、これを言い当てることはとてもむずかしい。
 むずかしいのであるが。
 なんとなくわかったような気もする。なぜか。それは私たちが、「時間が流れる」という表現を知っているからだ。そしてまた「時間」というのは「時計」で計測するものだけをさすことばではないということを知っているからだ。「充実した時間を過ごした」というとき、その「時間」は何分、何時間ではない。時計で測るものとは別の「身体的感覚・感情的印象・精神的印象」を含んでいる。
 「時間」というだれもが知っていることばのなかに、「さまざまな」時間がある。そういうことばのつかい方の「記憶」が、きちんとは意識されないまま動いている。きちんと説明できないまま、動いている。
 「ふわふわの黒いふぁー」は「肉体的」な感覚だったが、「時間」は「頭脳的(抽象的)」な何かなのである。「頭」のなかにあることばも、そういう不透明(?)な動きをする。

花が
花になりすぎたためだ、
という人もいる

 この「花になりすぎた」も、いろいろなことばを動かす。「頂点を過ぎた」という「意味」かもしれないが、「頂点を過ぎる」だけではない。「度を越す」という表現もある。「頂点を過ぎる」と「度を越す」はちょっと違う。かなり違う。違うけれど、どこかで似たところもある。「頭」のなかにある「意味」のいくつかが連絡を取り合って、なんとなく「意味」がわかったような気分になる。
 林のことばは、あくまで「頭」のなかで動くのだ。「頭」のなかにある無意識の「連絡網」を揺り動かして、いままでとは違う「意味」を感じさせるのだ。
 この運動を、「花」だけにとじこめるのではなく、「花」を取り囲むものにまでひろげる。

やがて
花が倒れることで空は空の色を失い

風は風ではなくなっていくだろう

 自然に(野原や花壇で)自然に咲いている「花」のことが書かれているのなら、それは自然の「空」や「風」のことである。けれど「花」が自然の花ではなく、「比喩」「象徴」だとしたら、「空」「風」も「比喩」「象徴」になる。「比喩」「象徴」が重なり合って、それは単に自然のことを書いているだけではなく、私たちが生きるときの人との関係をも書いているのだということがわかる。--「頭」でわかる。

 この「頭」でわかった瞬間に「抒情」が完結する。--この断定は、まあ、性急すぎるかもしれないけれど、私はそんなふうに感じている。

 「頭」のなかにあることばが、いくつかの「意味」を渡り歩きながら、「比喩」(象徴)をくぐりぬけ、「抽象」に耐えられる強度になったとき、そしてそれが林の書いているような自然の美しいもの(たとえば花)と重なったとき、「抒情」は誕生する。美しく、繊細になる。
 林のことばの美しさに気がつく--というのは、実は、自分のなかの美しさに気づくということでもある。私も林のように、こんなふうに美しくなれる可能性がある、と思い、美しくなることをひそかに願うとき、「抒情」は完成する。



 林はもう一篇「星座」という散文詩を書いている。「ことば」の不思議を文学学校で語っている。

言葉がなければ、この世のすべての存在は姿を隠してしまう。「桜」という言葉があるからこそ、桜は意味や価値をまとった「桜」として立ち現われ、そして楽しむことができる。星座の言葉があるからこそ、あの無窮の夜空に水瓶やサソリが姿を現わす。

 「意味や価値」と「立ち現われ」る--ということばが、林の考え方をとてもよくあらわしている。「もの」は「意味や価値」を「まとって」(身につけて)いなければ、人間には「もの」として見えてこない。(姿を隠してしまう。)「もの」が見えるのは、そこに「意味や価値」を見出すからである。そして、その「意味や価値」を「立ち現わ」させるのがことばなのである。
 そして、「意味や価値」が「もの」のなかから「立ち現われる」ものであるとして、「意味や価値」がもし「もの」のなかで「ひとつ」ではないとしたら、どうなるだろう。いくつもの「意味」、いくつもの「価値」がある。そのうちの何かをことばがひっぱりだしてくる。そうして、別のことば(もの)と結びつける。
 このとき、林の考えている「詩」が動く。「花」のように……。

 「星座」では、「もの」から「意味」「価値」を引き出し、「別のもの」と結びつけて、ことばによって「別のもの」を突き動かすという瞬間が書かれている。
 散文詩--と私は先に書いたのだが、短編小説、いや、短いけれど、これは「長篇小説」の世界である。一瞬の感覚(感慨)ではなく、林の言語哲学を語るために考案された言語装置である。

 「花」ではなく、「星座」の方こそ、もっと丁寧に感想を書かなければいけない作品であるということはわかっているのだが、私のことばでは、追いついていけない。傑作である。多くの人に「兆」で読んでもらいたい。





風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス



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