大西若人「森の存在感は何故か」はポール・セリュジエ「ブルターニュのアンヌ女公への礼讃」について書いたものである。
私はポール・セリュジエについては何も知らない。初めて見る画家である。女(たぶんアンヌ女公)が左側にいて、右側には3人の男がいる。背景は「森」と言うことになるのだが、奥行きは感じられず、ちょっとマチスの室内の装飾を思わせる。壁、何かを仕切る壁のような感じがする。
この絵について、大西はこう書いている。
カーテンの柄のように文様化された葉の群れは、人物とは重なっていない。同じ一つの面に収まっているとも映る。
葉は、実は背景ではないのかもしれない。つまり、森との共存。ほら、木々の葉たちも、兵士たちと対等な存在として、女公の言葉に聴き入っているようではないか。
いつもながらに楽しい文章である。絵を超える文章である。大西の文章を読んだあと、それ以外の視点で絵を見るのが難しくなる。
――という、いつもの感想とは別に、私はちょっと違うことを感じた。あれっとつまずいた。「木々の葉たち」。うーむ。「葉たち」、複数か。思いつかないなあ。この「葉たち」の「たち」がつぎの「兵士たち」の「たち」と重なりあう。そのために、「葉」が人間に思えてくるときの錯覚(?)が強くなる。説得材料のひとつになる。
こういう工夫(?)を大西はしていたのかなあ。気がつかなかった。
それに先立つ、「つまり、森との共存。」という断定。そして、間をおかずに「ほら、」とつなぐ呼吸。あ、これも、なんだか新しい大西を見る感じがするなあ。