廿楽順治『化車』 | 詩はどこにあるか

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廿楽順治『化車』(思潮社、2011年04月25日発行)

 廿楽順治『化車』のなかに書かれていることばは、ちょっと変である。何が書いてあるのか、はっきりとはわからない。けれど、なんとなく感じることがある。
 たとえば「具伝」。「具伝」って、何?
 私は知らないことばは知らないままにしておく主義。辞書はひかない。ほんとうに大切なことばなら、いつかわかるときがやってくる。つまり、それが実際につかわれている「場」に出くわし、意味がわかるはず--と、のんきにかまえている。
 で、わからないまま、作品を読むと。

ぐでんぐでん
きみはわたしをからかってるんですか
戦争になりますよ
のどがかれてどうにもならない
血の雨よこちょう

 「具伝」はわからないが「ぐでんぐでん」ならわかる。酔っぱらっている。そして、酔っぱらいというものはけんかをするものである。「きみはわたしをからかってるんですか/戦争になりますよ」というのは、その酔っぱらいのけんかのことばだねえ。
 「血の雨よこちょう」というのも、実際に血の雨が降るわけではないが、しょっちゅうけんかがあり「血の雨降らすぞ」なんてことばが飛び交っているんだろうなあ。

ぬすまれてやってきた
ろうどうのたましいにも衣をかけてやろう
ずっと
きみのしらないことろを浮いてきた
のぎさんは
だいたいなっとらんよ
どうしてちょうちんがそんなにしゃべるのか
それからおれは素足になった
ぐでんぐでん
勝ったのになんだたったこれだけか
われわれは何人だったか
かぞえられるものならかぞえてみよ
後世で
べらべらかたる詩人たちは信用できない
ぐでんぐでんと
いみをすててつたえてみよ
(鬼のぱんつは)
いいぱんつ
きみにはわたしのお経がわかるまい
だって ひとのなまえしか書いてない

 これが、詩の、残り。
 ここにもわかるところとわからないところがある。
 で、そのわかるところ。たとえば「のぎさんは/だいたいなっとらんよ」というのは酔っぱらいの言いぐさだとわかるのだが、不思議なことに、そこには「のぎさん」というまったく知らない人がいる。まったく知らない人がいるのに、わかってしまう。
 なぜ?
 ここに、たぶん廿楽のことばのおもしろさがある。
 わかるのは結局「意味(内容)」ではなく、口調。ことばのリズム。ことばが「肉体」になっている部分がわかるのである。廿楽は「意味」ではなく、ことばのリズムと、リズムのなかにある人間の「肉体」の感覚を書いているのだ。
 「どうしてちょうちんがそんなにしゃべるのか」なんて、まったく無意味なことばだ。口をついてでてきたことばだ。「ちょうちん」が誰のことを指しているのか私にははっきりとはわからない。「のぎさん」であるかもしれないし、ないかもしれない。(きっと違うけれど、まあ、どっちでもいい。)ただ、だれかを、「ちょうちん」と呼んで否定したい--そういう口調がわかる。それだけでいい。
 あとの酔っぱらいのことばも同じだ。
 酔っぱらいだから、ことばはしゃべっていても「意味」はしゃべっていない。そこに「意味」がある。「意味」などどうでもいいのだ。ただことばを「肉体」からだしてしまうこと、それも「肉体」をつかってだしてしまうことが大切なのだ。
 そのことばの、口語のリズムが大切なのだ。

 廿楽の詩に対する私の「解釈」は間違っている。私はいつでも「誤読」している。それで私は満足なのだ。「誤読」できることが、うれしい。
 「頭盆」。

足がまるだしなのに気づかない
頭上に
のせてきたものが
かわいて
にいさん、こりゃもう元にもどらないよ
すぐそこの沼まできたのに
おかし
もたべずにかえらなければならない
どんな時代も
さらのようなものがたりなくなって
頭上
がひらたくなるほかはない
そういうことに欠乏をかんじるやつが
言いなりになって
なんぼんも
かわいた足をまるだしにするのだ

 「頭盆」なんて、やっぱりわからない。わからないけれど、詩を呼んでいると、河童を思い出してしまう。禿げ頭を思い出してしまう。頭のてっぺんが禿げて盆のようになっている男を想像してしまう。床屋で「にいさん、こりゃもう元にもどらないよ」と禿について宣告されている男を思ってしまう。
 ことばの、口語のリズムから、そのことばが発せられた「場」を思い出してしまう。想像してしまう。
 ことばは「意味」をもっている。「内容」をもっている。でも、それだけではないのだ。ことばは「場」をもっている。その、ことばがもっている「場」を、廿楽は口語のリズムと一緒にひっぱりあげる。目の前にひっぱりだす。そのとき、「場」とともに、「肉体」が見えてこない? そこにいる「人間」の、だらしないといっていいのかどうかわからないけれど、まあ、人間の精神では律することのできない、はみだした「肉体」のようなものがない? 私は、それを感じてしまう。はやりのことばでいえば、メタボの「肉体」。余分なもの。理想の肉体からはみだしたもの--その余分なものの、変な感じ、あいまいで、どうしようもない、ゆるんだ「安心」のようなものを感じ、そうか、こんなふうに力をぬけばいいのか、とも思うのだ。
 「意味」なんて、力をぬいて、どっかそのへんにほうりだしてしまえばいい。
 「意味」なんてなくたって、「肉体」は存在し、「肉体」があれば、そこに「場」はあるのだ。「世界」はあるのだ。
 「意味」が攻撃してくるとぱーっと逃げ去って、「意味」があきらめてかえっていくと、また元にもどる「場」の力、その力としての世界。そういうものを感じる。
 口語の、ずるい(?)しぶとさを感じる。

いい年して
世界に毛がはえているのにはびっくりした
でたらめだよ
いったいだれがわたしの
皿をなめたのか
まるだしの足がどうして気づかれない
盆をわられて
おやじは死んだ
その晩からもう三年になるんだねえ

 ずるい、しぶとい、なにか。うーん。それは、妙になつかしくもあるなあ。




たかくおよぐや
廿楽 順治
思潮社



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