公開当時、とてもおもしろかった、という記憶がある。そのときの「興奮」をもう一度味わいたいと思ったのだが。うーん。時代とともに映像がこんなに変化するものなのか。出だしのカーチェイス。本物の車が、本気で走っている。いまはCGで処理するところを実際に車が走るから、スピードが速いようで遅い。その分、妙な温かさがあるねえ。「手作り」の味があるねえ。
フットボール(アメリカンフットボール)の試合にもそれがつながる。肉体と肉体がぶつかる感じが、シャープではない。その当時はその当時で、激しい映像をもくろんでいたのだと思うし、実際激しさも感じたかもしれないが、(実際、当時は、その激しさに驚いたはずなのだが)、いまの映像と比較すると、何かのんびりしている。映像の動きをみせるというより、肉体の動きをみせるという感じ。あくまで肉体をみせるという感じ。映画の冒頭の、付録のような、バート・レイノルズの、セックスシンボル時代の裸。まず肉体、むき身の肉体が「主役」で、動きが「脇役」。動きは、肉体を感じさせるための方法だ。
肉体が主役か、動きが主役か。これは、似ているようで、違うなあ。――アクションのなかでは、それが統合されているはずだけれど、実は完璧に統合されているということはない。肉体はを見るとき、観客の視線が動く。動きをみるとき、観客の視線は止まっていて、止まった視界の中で映像が動くのだ。
止まった視線のなかで動く映像――それは、動きそのものとして純粋化できる。シャープさ、激しさは映像でどれだけでも過激にできる。いまのCGを思えばいい。けれど肉体は、肉体そのものの存在はかえられない。肉体がぶつかる痛さ、苦しさは、CGの激しい映像では痛さ、苦しさになるひまがない。観客が役者の肉体の細部の動きを追いながら、痛み、苦しみを感じている余裕がない。だから笑う余裕もない。でも、動きがもったり(?)していると、痛み、苦しさが感じられるから、おかしいね。看守チームのディフェンスの要が睾丸を狙い撃ちされ、息ができなくなる。そのふらふら感。それから、「人工呼吸しろよ」「お前がやれよ」なんていう反応、笑っちゃいけないけど、笑っちゃうよねえ。観客だけでなく、演じている役者が、やはりそこにいる役者の肉体を見ている。肉体を感じている。肉体を感じるから「人工呼吸? やだよ。じょうだんじゃないよ」になるんだよねえ。
こういうばかげた(?)肉体の実感(共感)があるから、肉体がぶつかりながら展開するゲームで、肉体をぶつけあったものだけが、敵・味方をこえてつながる。敵・味方を超えて友情に到達することができる。あ、このスポーツマンシップ(?)は美しいじゃないか、と・・・監督の思うがまま。
このメルヘンは、はやりのCGではだめだね。「肉体」を実感できる味わいがない。
こういうメルヘンがロバート・アルドリッチ監督は得意だね。「北の帝王」もおもしろかったなあ。集団ではないだけに、「北の帝王」の方が、メルヘン+ロマンチックという感じがして楽しいはずだ。「北の帝王」が再上映されることはないのかな? もう一度みたいなあ。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ15本目、天神東宝4、05月14日)
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