伊藤浩子「夕焼け」は誰かと別れたあとの「肉体」のぼんやりとした空白を描いているように感じられる。誰かがいなくなっても、その記憶は残る。その記憶と向き合う「肉体」の感じがおもしろい。
ゆうべのきっちんに
死体がころがっている
まだやさしげな
名前はありません
ふたりは呼びあうこともなく静かに
くらしていたのですから
さっき運んできたのです
ここにはいくつもの
はだかの死体があがっているのが見えて
私は、「誰かと別れたあと」(誰かがいなくなっても)と書いたが、それはもしかすると「私(伊藤)」自身かもしれない。
「私」が「私」殺す--捨てる。いままでとは違った「私」になって、けれども、「死んだ私」を引きずって、家に帰ってきた、ということかもしれない。
どちらでもいいと思うのだが(と書くといいかげんだが、まあ、詩だからいいかげんでいいと私は思っている)、その過去の誰か(過去の私)を「死体」と突き放しながら、一方で「まだやさしげ」と呼ぶ矛盾(?)した感覚が、不思議になつかしい感じがする。それは1行目の「ゆうべのきっちんに」のひらがなの感じ--音だけがぼんやりと存在し、明確な形、「私」に厳しい「日常」とならない感じとも通い合う。
「はだかの死体」の「はだか」という表記も、意味ではなく、「音」のひろがりの方へことばが動いていくようでおもしろい。何かが、ときほぐされ、ほどけていく感じがする。夕暮れ、ものの形がくずれ、それぞれが色に帰っていくような感じである。
空は
腫れもののようにふくらんで
(はじめて自慰をおぼえた
(そのおぼえたての指先をさがしている
あ、ここはいいなあ。
「自慰」というのは女性の場合、どうなのだろう。確実にエクスタシーにたどりつけるものなのだろうか。エクスタシーは何によって証明(?)されるのだろうか。男の場合は、射精という「外形的な事実」があるのだけれど……。想像でしか言えないけれど、「確実」なのはエクスタシーではなく、「指先」の方なのかもしれない。その、エクスタシーではなく、エクスタシーのための方法(?)としての指先を「さがす」ということへことばが動いていくのが、私には、なんともおもしろく感じられる。クリトリスではなく、クリトリスに触る「指先」を「さがす」というときの果てしなさというか、わかっているはずのもの、わからないと言い切ることばの動き--精神の運動がおもしろい。
何か、この不思議なことばの動き--肉体と官能の動きと、先に見てきた「死体」「やさしげ」「はだか」の結びつきが、静かな「音楽」のように感じられるのである。
![]() | 名まえのない歌 (現代詩の新鋭) |
伊藤 浩子 | |
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