ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン監督「シリアスマン」(★★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン 出演 マイケル・スタールバーグ、リチャード・カインド、アダム・アーキン

 この映画の魅力を語るのはとても難しい。
 たいていの映画にはストーリーがあり、クライマックスがあり、カタルシスがある。この映画にはストーリーと呼べるものはない。もちろん時間の流れというかスクリーンの展開にそって何が起きたかを語ることはできるが、それは映画を見ていないひとには何のことかわからないだろう。だから、ストーリーの展開に則して、どこに感動したかというようなことを書けないのである。だれのどの演技が人間の真実をとらえていたかというようなことが書けないのである。
 どうやって、この映画の感動を書くべきか。どう書けば感動が伝わるか……。まあ、こんなことは考えていると面倒なので、とりあえずどこに感動したかということから書きはじめる。

 主人公が屋根のアンテナを直すために屋根に上がっていく。梯子をかけ、屋根にのぼる。屋根の傾斜がぶつかり、谷になる部分がある。その谷の両側を右足と左足で押さえるようにしてのぼっていく。このときの映像がとても美しい。はっとする。あ、こういう構図があったのか--と、びっくりする。屋根の角度、屋根の傾斜がぶつかりあい、谷をつくるところなど、どこにでもあるだろう。どこにでもあるはずなのに、コーエン兄弟のような、こんなふうに静かな構図、静かな質感で屋根を描いた映像を見るのは初めてという気がする。(急な傾斜で、人間が落ちそう。落ちそうになりながら屋根の上をゆくという映像なら何度も映画になっているけれど。)ぼんやり見ていて、気がついたときにはシーンが変わっているので、あ、どんな色だっけ、と思い出そうとするが思い出せない。それでもバランスがとてもよかった記憶がある。空の色、空気の色(光の色)が調和していて、初めての「構図」のなかですべてが落ち着いておさまっている。
 主人公が初めてナビを訪問するとき。テーブルがあって、その向こうにドアがあって、という部屋の描き方がある。そのテーブルのつくる水平線と、向こう側のドア(柱?)がつくる垂直線。そのときの構図も美しい。色のバランスも美しい。現実を見ている気がしない。「芸術作品」(絵画でも、写真でもいいが……)を見ている気がするのである。
 他のどのシーンでもいい。すべて構図がしっかりしている。安定している。マリフアナを吸って、世界が揺れ動いているときの映像さえ、映像が安定して傾いている。変な言い方になるが、不安定さがない。傾いたまま、傾いてあることが、落ち着いている。
 ストーリーは、どこへ動いていくのか見当がつかないくらい、とぎれとぎれで、強引で(主人公が内気で、その強引さに対抗しきれないのだけの話なのだが)、支離滅裂なのに、映像は支離滅裂ではないのだ。絶対的な安定構図、色のバランスの中で、静かに存在している。
 カメラのとらえる一瞬一瞬が(スクリーンに映し出される一瞬一瞬が)、とても美しい。ゆるぎのない構図でできている。ストーリーはどう説明していいかわからない、いわば不条理な展開をするのだが、その不条理を映像の完璧な美しさが統一してしまう。

 この映像の完璧な構図、安定感と関係があるのかないのか……。役者たちが、おもしろい。ふつう役者というのは演技をする。ストーリーに役者の肉体(役者の過去)を絡ませる形で、人間の感情を再現する。この映画では、感情を再現しない。肉体の形がスクリーンのなかで構図になるだけである。
 主人公の感情にも、妻の感情にも、妻の不倫相手の感情にも、何人かのラビ、弁護士、それから他の登場人物のだれに対しても「感情移入」できないでしょ? 「感情移入」できないように演技しているのである。主人公が泣くときでさえ、観客は「もらい泣き」などしない。泣く男がそこにいて、それが「一枚の絵」になっている、ということを見るだけなのである。
 主人公の上司(?)、学長(?)が主人公と話すときの姿勢が、「構図」ということを説明するのに役立ってくれるかもしれない。彼は少し猫背である。(最初のラビも猫背であった。)その猫背は、胸の内を隠して(胸を小さくして)、感情をあらわさないようにして語るという人間のあり方の「構図」なのである。同じように、主人公と話すとき、妻の姿勢、子供たちの姿勢、ラビや弁護士たちの姿勢、距離のとり方--そういうものがすべて「構図」であり、それがスクリーンの映像を安定させているのである。

 コーエン兄弟はもともと映像が、特に構図が美しい。「ミラーズクロッシング」の森のシーン、「ノーカントリー」の首を絞めながら殺される男の足がリノリウムの床に残す引っ掻き傷の美しさを、私はすぐに思い出すことができる。また、その美しい映像(構図)と殺人という凶悪なものが出会い、融合するときの官能的な興奮も思い出すことができ。る。
 しかし、どの映画も今回の映像ほど強靱ではない。いや、これは正しくはないかもしれない。今回は、ともかく映像の強靱さ、構図の強靱な美しさが際立つ。それはストーリーが不条理であるということと関係しているからかもしれない。ストーリーはどうでもいいのだ。ストーリーを拒絶しても映像は存在しうるのだ。ストーリーから、映像を解放したのだ--というと言い過ぎになるだろうか。
 ともかく、びっくりしたのだが、こうやってストーリーからの映像の解放と書いてしまったあとで、ストーリーというものを見直してみると、私たちの「日常」というのは「ストーリー」よりも「ストーリーから逸脱した部分」の方が多い。そして、ストーリーから逸脱しても、そこには人間がいて、人間の暮らしがあって、つまり机や本や家や屋根があって、それは目に見える。いわば「映像」を持っている。そうであるなら、この映画のように不条理(ストーリーとストーリーの展開によるカタルシスを持たない)作品を統一するものが「映像の力」であってもかまわないことになる。
 コーエン兄弟は、映像そのものを生きている監督なのだ。私は「ファーゴ」も「ミラーズクロッシング」も「ノーカントリー」もみんな好きだが、この「シリアスマン」はどの作品よりも飛び抜けて傑作である。これからもコーエン兄弟は映画をつくりつづけるだろうが、この映画は彼らの代表作であることに間違いはない。大傑作である。しかし、多くの評価される映画のように共感できる「人間像」をスクリーンのなかに定着させていないので、常に評価からもれてしまうに違いない。そういう大傑作である。不幸な大傑作である。

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