西脇の書いている情景は、私には非常になつかしいときがある。子ども時代を思い出すのである。「ティモーテオスの肖像」。タイトルは私の子ども時代とは無関係だが、そこに書かれていることは昔の記憶と重なる。
イタリ人のように
大人が昼寝をしている時
やなぎの藪の中に反乱が起る
子供の近代的な笑いが始まる
どぶ川の中で泳いでいる
桑いちごときゅうりを齧りながら
永遠的な方向を指さしている
小さいフナが杏子のかんづめの
空きかんの中で死んでいる
こういう情景は、私たちの年代はだれもが体験していることなのかもしれないが、とてもなつかしい。そして、なつかしいと同時に、ちょっと不思議な気持ちにもなる。なつかしいのだけれど、ちょっと違う。ふつうの「思い出」と何かが違う。
たとえば3、4行目。これは子供たちがやなぎの向こうではしゃいでいるときの描写であるが、こういうとき「反乱」とか「近代的な笑い」とはふつうは言わない。そういうふつうは言わないことばをぶつけることで「情景」を批評する。
批評が西脇にとっての詩である。抒情ではなく、批評。だから、ことばが乾いている。批評のために、あえて抒情ではつかわないことばをつかう。ことばを未整理のままつかう。それは、「反乱」「近代的な笑い」というようなことばだけでない。
小さいフナが杏子のかんづめの
空きかんの中で死んでいる
よく読むと、「かんづめ」「空きかん」ということばが重複している。抒情派の詩人なら、この重複を整理して違う形にすると思う。しかし、西脇はしない。わざと未整理にしてほうりだす。--だけではない。その未整理を、「意味」ではなく、「音楽」にしてしまう。「音」の響きあいで遊んでしまう。
「杏子(あんず)」「かんづめ」「空きかん」「死んでいる」。「ん」の音が響きあっている。その響きあいは、他のひとにはどう感じられるかわからないが、私の場合は「意味」を消し去る。「意味」よりも「音」の楽しさの方が前面に出てくる。「音」が気持ちよく感じられて、うれしくなる。
この「ん」の響きあいのなかに「反乱」「近代的」までが意識されているかどうかわからないけれど、私のよろこびは、そこまでさかのぼる。批評としての「反乱」「近代的」さえ、「音」になって遊びはじめる。
トンボは百姓が忘れていつた
鎌の上にとまつて考えている
この2行の「トンボ」「考えている」にさえ、私は「ん」の響きあいを感じる。トンボが何かを考える--というようなことは、まあ、ない。そういうないことを「わざと」書く。そして、その「わざと」書くことばが「音」で統一される。
この地獄の静けさの中で
人間は没落を夢みているのだ
どこかでまた子供が
スモモの木の中へ石を投げている
音がする--
小さい窓からザンギリのおつさんが
頭を出して怒鳴っている音がする
「音」の対極にあるのは「静けさ」。そういうものを出してきておいて、「音」そのものにも言及する。
「スモモの木の中へ石を投げている/音がする」は正確には(学校教科書的には)「石を投げている音」ではなく、投げた石が木にぶつかる音だろう。「怒鳴っている音がする」は怒鳴っている声がする、になるだろう。
「音」ということばのつかい方が「学校教科書」とは微妙に違う。違うから、「音」ということば、「音」そのものが、新しい「もの」のように感じられる。この「新しさ」が詩のなのだと思う。
そして、この部分には「ん」の響きあいが残っている。「ザンギリ」「おつさん」。「おつさん」は「男」でも「意味」はかわらないが、ニュアンスだけではなく、「音」そのものがまったく違う。
「音」が、何かしら西脇の詩には重要なことばの推進力になっているのだ。
![]() | 西脇順三郎全詩集 (1963年) |
| 西脇 順三郎 | |
| 筑摩書房 |
