誰も書かなかった西脇順三郎(204 ) | 詩はどこにあるか

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 『禮記』のつづき。「愛人の夏」。

 西脇のことばには聖と俗が入り混じる。その瞬間、ことばがとても清潔になる--と感じるのは私だけだろうか。聖から聖が洗い流される。俗から俗が洗い流される。聖と俗という固定概念が破壊される--その瞬間、何かが生まれる。その名づけることのできない何かが、新しい響きでことばを満たす。その瞬間を「清潔」と私は感じるのだ。
 たとえば、

あのドクダミの匂いもかぐ心もない
あのいやにはびこつているクズの葉は
万葉人のふんをふく
昔の人の偉大な歴史だ

 「万葉人のふんをふく」。この1行が、いま引用した部分ではとりわけ清潔である。
 「万葉」は「万葉集」を思い起こさせる。「万葉」は文化(聖)である。一方の「ふん」は俗そのものである。文化とは無関係な日常--しかも、どちらかというと「隠しておきたい」ことがらである。「万葉」と「ふん」の出会いだけで、十分におかしいのだが、西脇はそれをさらに拡大する。
 「クズのは」で「ふんをふく」。昔はトイレットペーパーがないから、かわりにクズの葉をつかう。そういうことを書いているのだが、そう書いてしまうと「意味」になる。西脇は、これを「意味」にならないように書く。だから、よけいに聖と俗がきわだち、清潔感も強くなる。
 「意味」にならないように書く、というのは。
 冷静に考えれば、「ふんをふく」ということば変である。糞を拭くのではなく、尻を拭くのである。糞をしたあと、尻を拭くのである。けれども、西脇は、日本語の「文体」の間接を脱臼させたようにして書く。言い換えると、日本語の歴史で積み重ねられて「ことば同士の脈絡」、このことばは、このことばで受けるという習慣を破る。このことばが主語なら、動詞はこれ、という習慣から離れてことばを動かす。「糞をしたあと、尻を拭く」という言い方が一般的だが、その習慣としての「文体」を破壊して「ふんをふく」と書く。
 この壊し方が絶妙である。「ふんをふく」で、十分に「尻をふく」という「意味」がつたわってくる。「意味」をつたえながら、そこにいつもとは違ったことばをもってくる、違った音をもってくる。そうすることで、「耳」を刺激するのである。「耳」が一瞬、あ、いま聞いた音は何かが違うと気づく。そして目覚める。何かが。それがおもしろいのだ。これが「ふん」ではなく、まったく違うものだったら、たとえば「涙をふく」だったら、また違った「意味」が生じてきてしまいそうである。そうならないものを、西脇は、きちんと識別してもっていきているのだ。

 それはそれとして……。蛇足になるが、トイレットペーパーがわりにクズの葉をつかう、植物の葉っぱをつかうというのは、いまでは考えられないことである。西脇のいきていた時代でも、それを実際にしている人は少なかったかもしれないが、そのことばはすぐに通じただろう。
 そうしてみると、「暮らし」というのは、万葉から現代まで、あまり差がないことがわかり、愉快な気分になる。ドクダミも、いまではあまり見かけないだろうが、昔はどこの家の便所の近くにはびこっていたものである。
 西脇は時間・空間を自由にとびまわってことばを動かしているように見えるが、そこに書かれている時間は、私たちがいまから想像するよりははるかに「短い」期間だったのかもしれない。「万葉」といってもすぐとなりだったのかもしれない。西脇にとって「西洋」がすぐとなりだったように、万葉の時代も石器時代も江戸時代も、きっと区別がないくらいに身近だったのだろう。




現代文学大系〈第34〉萩原朔太郎,三好達治,西脇順三郎集 (1965年)
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筑摩書房