監督 グザビエ・ヴォーヴォワ 出演 ランベール・ウィルソン、マイケル・ロンズデイル、オリヴィエ・ラブルダン、フィリップ・ローデンバック
映像がとても美しい。寒村の修道院が舞台。修道士がそろって白い服をきて(フード付き)、祈りを捧げる。歌を歌う。賛美歌のことは私は何も知らないが、何回も繰り返されるこのシーンが美しい。白い服は、きっと彼らの「純粋さ」をあらわすのだと思う。私心をすて、神に身をささげ、宗教に生きる姿勢をあらわす「白」だと思う。また、厳格さをも象徴するかもしれない。汚れることを拒む強さ、それを象徴するかもしれない。
この「白」が少しずつ変わっていく。
アルジェリアの小さな村なのだが、そこには彼らキリスト教徒とは別にイスラム教徒がいる。かれらは共存しているのだが、イスラム過激派(?)がキリスト教徒を許さない。テロリストが修道院にも襲ってくるからである。
どう対処すべきなのか。
結果的に全員が修道院にとどまり、いつもどおり近くの人々の治療をし、神学につとめて過ごすことを選択する。しかし、その「結論」は簡単には出ない。自分の命がかかわってくるからである。
苦悩し、議論する。「逃げる」ことは正しくない。そうはわかっていても、それは「頭」で考えたことである。「肉体」は震える。まっすぐには直立しているわけにはいかない。「白」は、外からやってくる「黒」をはねのける色だったのだが、次第に自分自身のなかにある「暗い不安=黒」を隠すものへと変わっていく。「白い服」によって、自分のなかの「黒」を封じ込めるのである。信仰の「ゆらぎ」そのもの、「陰」を封じ込めるのである。
繰り返し繰り返し、聖書のことばを読み、賛美歌を歌い、祈りをささげる。「白い」マントですっぽりと体をつつみ。フードで「頭」まで包み隠し、「白い服」の「白」を自分たちの共通のものとして選びとるのである。しかし、そのとき「白」は、彼らの「主張」ではない。彼らを「縛る」教義である。(と、書いてしまうと、キリスト教徒にしかられるかなあ。)彼らはテロリストも怖いが、自分自身が「キリストの教え」から逸脱していくことも怖いのである。自分が自分でなくなってしまうから。だから、その「白」は自分を守るための色ともいえる。
ひとつの「白」のなかにも、いくつもの「意味」「表情」があるのである。
「白」は強くなったり、弱くなったりする。象徴的なシーンがある。白い服で身を包んでの、いつもの祈りの最中に飛行機の音が聞こえる。このとき、修道士たちは身を近づけ、声をあわせて、歌いつづける。はなれて立っていた修道士たちが近付く。「白」が近付く。そうすると、互いの「白」が互いの「白」を照らしだし、少し強くなる。「白」がいろいろな思いが交錯しているのだけれど、その「白」が修道士たちの声の「色」も統一する。やがて飛行機が去っていく。この瞬間、「白」がじわりと発光する。輝きだす。
あ、これはもちろん「白」そのものの変化ではない。「白」のなかの唯一変化する「場」、顔の変化である。修道士たちの顔が不安から安心にかわる。その色が輝く。その変化が「白」に伝染して、「白」が輝く。この変化は「白」だからこそ、こんなにくっきりと出るのかもしれない。
こういうことが、日々、繰り返される。服の「白」そのものはかわらないが、そのフードのなかにある顔が変わる。その変化がじわりと服の「白」を汚染していく。その印象が生々しい。--もっとも、これは正確には、修道士の顔の変化、目の変化に引きずられて、私が「白」をそんなふうに見ているだけのことなのかもしれないが、なんだか「白」そのものが変わっているように感じられるのである。それだけ役者の演技力がすごいということなのだと思う。
「白」は服だけではなく、いろいろな形で出てくる。修道院のなかに差し込む光の白と、その白い光がつくりだす影の透明な感じはとても美しい。また、気丈に「理想」を貫き通す力となった、主人公(ランベール・ウィルソン)が人知れず雨のなかで慟哭するシーンの雨もまた白の変化のひとつである。雨のなかの光の薄い感じ--それもまた白の変化である。
そして、最後の雪。修道士たちが連れ去られ、処刑されるために雪の山の中を歩くシーンの雪の色--。
あ、その前に、白から少し逸脱して、クリスマス(はっきりとはわからないのだが、たぶん)に聴く「白鳥の湖」について書いておいた方がいいかもしれない。爆撃をおそれて声を合わせて祈るシーンとは対照的なシーンである。
夜。晩餐の背後に流れる「白鳥の湖」。「白鳥の湖」というタイトルのなかには「白」があるけれど、これは映像化はされない。音の力で暗示されるのだが、それが「音」になった瞬間、なぜかそれは「黒」に感じられる。その音楽にのって、カメラが修道士たちの顔を一人ずつアップでとらえていく。それぞれが不思議な暗さをかかえている。決意をかかえている。それは外の「黒」、夜の「黒」と呼応しているというより、「白鳥の湖」がもっている悲劇性、神話につうじるような透明な悲しさ、その「黒」と呼応しているように感じられる。修道士たちはみな、「白鳥の湖」のなかの「黒」、「黒い音」と、まるで呼吸し合っているように感じられる。
「白」と「黒」が混じり合って、かなしい、冷たい灰色になる。
それがラストの雪の色になる。乾いた雪ではなく、湿った雪、水分を含んだ雪なのかもしれない。そのなかを修道士たちがつれられていく。遠くに行くにしたがって、彼らの影は、その灰色の雪、灰色の闇にとけこんで見えなくなる。
この映画は「白」の変化(そこには、黒、灰色も含む)をとおして、修道士たちの存在を描き出している。その生き方が正しいとか、間違っているとか、もっと別の生き方があったとか--そういう批判は除外し、ただ「白」の変化として定着させている。テロリストを安直に非難することもない。非常に気品がある。そして、その「白」の変化に「音楽(音)」もとても自然な感じで溶け込ませている。一種の「奇蹟」のような映画である。★が5個ではなく4個なのは、私がキリスト教にうといからである。この映画で歌われている歌と映像の関係がつかみきれないから★4個にしたのだが、ほんとうは5個の映画かもしれない。
*
映画のなかで歌われる賛美歌--それをランベール・ウィルソンは自分の声で歌っているのだろうか。だとすると、これはすごいなあ、と思う。意味がわからないから、声の調子だけでいうのだが、賛美歌のことばと音に全身全霊を集中するという感じが強くつたわってくる。
(2011年04月04日、KBC シネマ1)