ジョエル・コーエン、イーサン・コーエンは映像の魔術師である。父親を殺された少女が保安官を雇って殺人者を追いかける--という、いわば荒唐無稽のストーリーを、リアルではなく、お話の枠をもったメルヘンにしてしまう。これから始まるのは、(メルヘンだから)ほんとうのお話です、という前置きまでつけて、その枠のなかに映像をはめ込んでいく。
(メルヘンだから)活躍するのは少女、というのはあたりまえ。その少女が、賢くて、強くて、少年みたいというのもあたりまえなのだけれど、
あ、目がいいなあ。
ヘイリー・スタインフェルドの、何もかもまっすぐに見る目がいい。この目のなかでは、世界はこんなふうにすっきりとした構図をもっているんだなあ。凝っていない。基本はあくまでもまっすぐ。水平か、垂直か。
少女の三つ編みのお下げさえ、まっすぐな垂直線に見えてしまう。
と、書いて気がつくんだけれど、この三つ編みがまた実にいい感じだねえ。まっすぐなだけではなく、束ねることで「芯」が生まれ、乱れがなくなる。まっすぐであることが、強調される。コーエン兄弟の今回の映画の映像を象徴しているのが、きっとこの少女の三つ編みである。
髪を編んで束ね、まっすぐにするように、少女は自分の意思を束ね、まっすぐにして、そのまっすぐな視線で世界を見つめる。父を殺した男は許せない。父を殺した罪で罰せられなければならない。そのことだけを見つめる。
その視点からだけ、世界を見つめる。
最初の方に出てくる絞首刑のシーン。3人いっしょに絞首刑になるが、その処刑の瞬間、水平の板がぱかっと開いて、ロープがぴーんと張ってまっすぐになる。それを直視する映像。何か、美しいよなあ。目を逸らさないから、どんな残酷なものでも、美の瞬間をもって、そこに存在する。
悪を罰する--それ以外のことは、まあ、見つめない。見つめない、というより、見えないのだ。真実しか、見えない--そういう目である。
葬儀屋で何人もの死体といっしょに寝ることなど、ちっとも怖くないのだ。
さらに、このまっすぐな映像に、少女のまっすぐなことばが重なるからおもしろい。14歳の少女がこんなふうに弁舌に巧みであるということは、現実にはないだろうけれど、(メルヘンなのだから、まあ、いいのだ)、その弁舌の特徴は、むだがないということ。余分なことは言わない。言いよどまない。頭の中ですっきりとした「文章」になって、それから声になって出てくる。そのまっすぐにととのえられたことばが、ほかの大人たちのことばを洗い流す。
街をでて、犯人を追いかけはじめてからのシーンも、とてもいい。西部劇だから、景色が広大なのはあたりまえかもしれないが、その空間の広さに透明感がある。それも、なんといえばいいのだろう、無垢の自然の透明感というよりは、一種都会的な透明感がある。自然そのままの視線がとらえた透明感ではなく、まっすぐに移動するときに見えてくる透明感がある。止まっている透明感ではなく、動いていくことで透明になる空気がある。
その象徴的な映像といえばいいのだろうか。
最後のシーンが、とても美しい。大好きだなあ。(最後の直前、だけれど。)
少女がへびにかまれる。少女をのせて、ジェフ・ブリッジスが馬を走らせる。そのとき、少女が幻を見る。ゲーテの「魔王」だねえ。空には星が燦然と輝いている。二人を乗せた馬は走りつづけて苦しく、息絶えてしまう。馬の肌の汗で光る色。まるで星空が馬の肌におりてきたみたい。壮絶だ。悲しいシーンなのだけれど、非常に美しい。これが現実だったらやりきれないけれど、メルヘンですから。
ほんとうのラストも美しいなあ。
ジェフ・ブリッジスの遺体を引き取り、家族の墓と一緒にする。その墓から歩いて帰るシーン。丘の少しだけ丸みをおびた線が、それまでの厳しい直線を強調した映像とは少し違う。けれど、その水平線の向こうへ歩いていく女の足どりは、やっぱりまっすぐ。いいなあ。
(03月19日、天神東宝)
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