フィリップ・リオレ監督「君を想って海をゆく」(★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 フィリップ・リオレ 出演 ヴァンサン・ランドン、フィラ・エヴェルディ、オドレイ・ダナ

 人はどこに住むことができるか。なぜ、住みたいところに住めないのか。なぜ、自分の行きたいところに行けないのか。この問題は難しい。そして、その問題がどんなに難しいものを含んでいても、どこかへ行きたいという気持ちはどうすることもできない。その気持ちを実行に移すことを拒むことはできない。
 イラクからフランス北部の町まで歩いてやってきた少年がいる。クルド族の難民である。ほんとうの目的地は恋人の住むロンドン。トラックに隠れて密入国(密出国)を図るがみつかってしまう。その少年が、海の向こうにイギリスが見えるのに気が付き、泳いで渡ろうと決意する。その決意に気がついたプールのインストラクターと少年の交流を描いている。
 細部が丁寧である。特に、決して揺れ動かない少年の決意に対比して描かれるフランス人の男の描写が丁寧である。
 男は、妻との離婚問題を抱えている。愛しているのに、必要としているのに、女を引きとめることができない。それに反して、少年は遠く離れた恋人に会うだけのために命をかけている。その懸命さに、男は、夢を見るのである。自分には実現できない夢を。
 その夢が図式的にならないのは、男の現実を丁寧に描くからである。男と女は離婚を決意しているのだが、スーパーで出会ったときは「こっちのレジに来て、並ばなくて済むから」というような、きわめて日常的なこころ配りをする。女は、男が少年をかくまっている(世話をしている)ことを知ると「違法行為がみつかったら逮捕される。やめて」と注意したりする。離婚は決意しているが、相手がどうなってもいい、とは思っていない。気になるのだ。自然に気遣いをしてしまうのだ。
 そういう気遣いを受ける男は、少年の夢に対しても、それに似た気遣いをしてしまう。
 そうなのだ。この映画は「気遣い」を描いているのだ。人が一緒に生きるときに必要なのは、きっと「気遣い」なのだ。少しの「気遣い」さえあれば、人は生きてゆける。もっと生きやすくなる。
 周囲をみれば、他者への配慮を欠いた人がたくさんいる。クルド難民を、自分たちの生活を乱すもの、迷惑な存在と見て、排除しようとする。難民に救いの手を差し伸べる人をも排除しようとする。治安の維持という目的で。それは、こころが狭量だからなのだ。
 男が直接かかわるシーンではないが、少年が取り調べを受けるシーン。係員が少年の財布から恋人の写真をみつけからかう。写真の取り合いになり、恋人の写真が破れる描写は、人間のこころの冷酷さを端的にあらわしている。からかった係員は、単にからかってみただけ、悪意はなかったというだろう。たしかに悪意はないかもしれない。けれど、その悪意のなさ、無意識の行動に深い問題がある。無意識だからこそ、制御がきかない。積み重なって、暴走することもあるのだ。
 こころの狭量に対する怒り、気遣いをどう実現していいかわからない現実――男は揺れながら、自分の行動を修正する。金メダルを盗まれたことを許す。少年の夢のためにウェットスーツを貸す(与える)、貴重な指輪をプレゼントする。それがほんとうに少年を助けることになるのか。わからない。わからないけれど、そうするしかない。その悲しみが、静かに残る。

 少年を阻むドーバーの冬の海。その、暗い色。硬質な波。それは人間の思いとは関係なくそこに存在する。それは過酷である。けれど、少年を取り調べた係員のように、無意識な悪意を持ってはいない。少年を阻むのは、自然ではなく、いつも人間なのだ。人間が決めた「なにごと」かなのだ。
 原題の「WELCOME 」が強烈である。男の隣人が、男が少年をかくまっていると密告した。その隣人が、男が怒りをぶつけることを予想して、玄関に「WELCOME 」と書かれたマットを引いて挑発する。「来るなら来るがいい、はねつけてやる」。それが現在のフランスの「難民政策」である、と監督は怒っている。
                         (03月15日、KBCシネマ2)