松本圭二「7 ジブリ1号」 | 詩はどこにあるか

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松本圭二「7 ジブリ1号」(「現代詩手帖」2011年02月号)

 松本圭二「7 ジブリ1号」は「ミミズノウタ」という小詩集のなかの1篇。この詩よりも「10 とば1号」の方が私には読みやすいのだが、なぜか、「ジブリ」の詩についての感想を書いてみたいのである。どんなことが書けるか、私自身を試してみたい。

というのも
私はジブリという言葉がすごく怖かったんです
何かにジーっとにらまれ
ブスリと刺し殺される感じがして

 「ジブリ」で思い浮かべるのは、アニメ制作集団である。その「ジブリ」の作品がではなく、「言葉」が怖いという。「ジブリ」って、ことば? 松本は「言葉」と書いているが、私にとってそれはことばではない。ことばではないのだが、松本がそれにつづけて書いていることが私には、とってもよくわかる。(よくわかる、と勝手に共感してしまう。)
 「ジブリ」とは何のことか私にはわからない。単なる「音」である。そして「音」から「ことば」ではなく、私の場合「意味」がはじまる。「ジブリ」からはじまる意味--それが「何かにジーっとにらまれ/ブスリと刺し殺される感じがして」なのである。
 わけのわからない「音」があって、それが「ことば」であると知ったとき、私は「辞書」を引く前に、自分の「肉体」に聞いてしまうのである。そうすると「ジーっとにらむ」「ブスリ」があらわれる。「ジーっ」「ブスリ」が「ジブリ」になる。
 こんなことは、きのう書いた松浦寿輝には絶対に起きないことだろうなあと思う。いや、たいていのひとには起きないことかもしれない。だから、あ、松本も「音」からはじまる人間なのだと知って(勘違いして? 誤読して?)私は勝手にうれしくなるのである。こうなると、もうすべてがうれしい。
 この詩は松本圭二が書いたのではありません。私が書いたのです、と主張したくなる。私が書いたというと嘘になるので、私が松本の夢のなかにあらわれて松本に書かせたのです、と言ってみようかなあ、というような感じ。
 それくらいぴったり感じる。

それで個人的に、というか生理的に、というか反射的にジブリについてはジブーリと発音して、というか発音以前に唇がそのようにしか動かない、というか脳ではなくて無意識がそのように命令しているとしか言いようがないんですけれども

 そして、この感じ、ある音からはじまって変に理屈っぽくなるこのリズム--ここにあるのは、実は「書きことば」ではなく、「話しことば」だねえ。「意味」を考えてから書いているのではなく、口が勝手に動いて、「意味」を探しまわる。その結果、探しあてたものが「答え」ではなく、「探しまわる」という経過というのが、またおもしろい。ここには「探しまわる」という行為のリズムが「答え」としてある。
 --変でしょ? 私の書いていること。論理になっていないでしょ? でも、この変なところに、きっと松本の「思想」がある。
 私はなんとなくそれを確信している。(なんとくな、確信、というのは矛盾だけれど。)
 で、詩のつづき。

……としか言いようがないんですけども私がジブーリと言うとジ・ブーリみたいになってしまうからヒャクパーキョトン顔されるんです
「は?」みなたい顔です
「おまえイタリア人かよ?」みたいなことも言われました
嫌味には生まれつき慣れていますが
しかしニンゲンという根性の腐り切った下品な生き物は嫌味が好きで好きでたまらないみたいですね
絶望的です
ジブリ
私は言えないですよ
それが言えてしまうのは感性のウジ虫だけです
ジブリ
ジ・ブーリ
これはG式の問題ではありません
命懸けの美学ですから
おいこら世界中!
私の唇にへんな言葉を言わすな!

 あ、これはほんとうにうれしくてしようがないですねえ。
 とはいうものの、やっぱり他人は他人。松本は松本。私ではない。最初に書いたことと少し関係があるけれど、私は「ジブリ」を「言葉」とは呼ばない。「音」という。

私の唇にへんな音を言わすな!

 と書くだろうなあ。
 まあ、これは違うから大切なことなんだけれど。



 ちょっと松本の詩からはなれてしまうことになるけれど。
 私には嫌いな音がある。小倉に「紫川(むらさきがわ)」という川がある。私はこの音(松本なら「言葉」というだろう)がとても嫌いだ。背中がぞくっとしてしまう。こんな汚い音をよくもまあ川の名前にしたものだと思う。小倉のひとは「むらさきがわ」の「が」を破裂音で発音するから、「むらさき」という音のあとに、その破裂音の「が」がくると一歩後ろへさがりたくなる。



 「とば1号」についても少しだけ書いておく。

つまりそれは
ファーブルと昆虫記のような
「と」
の発見
「と」が「の」を反転させるテロール
もしくはテロリン
ば。
海辺とカフカ、レキシントンと幽霊、砂と女、仮面と告白


 なぜ「と」じゃなくて「の」だったのだろう。きっと「意味」が「と」ではなく「の」を選んだのだろうけれど、もし、「と」だったら? 「意味」が違う? うーん、違わないような気がする。「と」の方が「意味」が絶対ひろがると思う。
 なぜ絶対的にひろがると思うかといえば。
 「と」の方が声に出すとき力がいる。肉体が強く動く。強く動くものの方が「ば」をひろくとってしまう。
 あれ? こんなことを書いているわけではないか……。

 私はいいかげんなことを書いているのだが、このいいかげんなのかに実は大切なものがあるとも感じているのだ。いいかげんにしか書けないのは、そのことが私自身によくわかっていないからなのだが、(そして、詩はいいかげんでいいのだという思いもあるからなのだが)。
 ことばは「意味」だけではないのだ。「意味」だけを「肉体」が引き受けてことばを動かしているのではないのだ。「意味」にたどりつくまえに、ひとはそれぞれの「肉体」にあわせてことばを少し歪めている。その「歪み」のなかに、詩につながる「いのち」がある。
 松本の詩について触れながら、私はそんなことをほんとうは書いてみたかった。いつか書きたいとも思う。きょうの「日記」はそのためのメモである。




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松本 圭二
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