金井雄二「またあした、と声かけあって」は子供時代のことを描いている。野球に夢中になっている。
今までぼくらは
夢中になっていて
そう、夢の中にいるみたいだった
白いボールが
夕暮れの薄暗がりの中に
こうこうと光っていて
まあるい電球のようで
どこまで追いかけても
白いボールは沈まなかった
美しいなあ、思わず声がでた。
そうなのか、野球のボールは太陽と違って沈まないのか。
それでも、やはり家に帰らなければならない。
またあした
またあした
ぼくらはみんなで声かけあって
あたりは顔もわからないぐらいの
空気になって
胸は空気で膨らんで
ぱんぱんになるまで走っていって
玄関の引き戸を引く
部屋の中はとても明るかった
目を覚ましたときの
朝の光のようで
湯気の向こう側から
声をかけてくれる人がいて
ただいま!
おかえり!
前半の「夢」(夢中)から覚めて、「朝」を発見する。その「朝の光」という比喩の発見は、「沈まないボール」の発見のように、また、美しい。
そのあとが、さらにさらに美しい。
子供たちは「またあした」「またあした」と声をかけあって別れたのだが、今度は別の人が声をかけてくれる。
ただいま!
おかえり!
何でもないことなのだけれど、この声をかけて、声が返ってくるというよろこびが、とても美しい。
「湯気の向こう側から」というのは、母親が夕ご飯をつくっているからだろう。その具体的な描写が、そこにはっきりと「母」を浮かび上がらせる。母ということばをつかわずに、母が浮かび上がる。「母」ということばが出でこないのは、母がこのとき金井と一体になっているからだ。意識する必要のない一体感--その幸福が金井を包んでいる。
だからこそ、金井は、いったんその「一体感」から離れてみる。
ただいま!
声をかけることで、母を湯気の向こうに、あえて明確に存在させる。金井とは離れた場所に母を存在させる。そうして、
おかえり!
と返ってくる声を受け止めて、もう一度「一体感」につつまれる。その「一体感」が「家庭」になる。「家族」になる。「広がり」のあるものになる。一体感は、普通は距離のなさ、くっついている状態のことだから、「広がる一体感」というのは一種の矛盾だが、矛盾しているからこそ美しい。その矛盾は、金井が見つけ出し、ことばにした「詩」である。
*
坂多瑩子「祖母の家」は、9日に感想書いた岩佐なを「そほ」に少し似通ったところがある。
さそわれたから
へやの扉をあけると
その洞窟は
身内どうしの
はなしの中にでてくる祖母が
住んでいて
うそだ
と思うと
ちゃんとききんしゃい
声が聞こえる
かかわるとややこしいので
水を飲みにいこうとすると
藍色の簡単服の裾をぱっぱっとはらいながら
ついてくる
不在の--亡くなった祖母が、はなしの中にあらわれ、それがはなしの中から、現実の中へ飛び出してくる。「はなし」は、このとき金井の描いている「広がる一体感」と同じものである。「広がる一体感」の、その「広がり」のなかで、あらゆるものが現実の手触りとなる。現実になる。
「うそだ/と思うと/ききんしゃい/声がきこえる」。あ、ここでも「声」である。ひとはひとに声をかける。離れているひととひとを声が結ぶ。その結ばれた距離、そこからはじまる広がりの中で、あれもこれも起きるのである。
それは、ときには「ややこしい」こともある。「ややこしい」のは、その広がりや距離というもの、あるいはその広がりの中で生まれてくるあれもこれもが、なかなか「論理」のようには片づけられないからである。「論理的」、あるいは「合理的」には片づけられないからである。
金井の描いていた「広がり」は子供の至福に満ちていたが、おとなになると、それは至福とはかぎらないのだ。けれど--まあ、それがややこしいけれど、おかしくて、いいものである。
別の日なんか
押し入れをあけると
そこは洞窟で
押し入れに隠してあった通帳はどこいったか
どこいったか不安になって
ふりかえると
ぬくっとしたへやで
本がだらだら並べられていて
祖母はいない
今日は
五目並べをしていたら
祖母がこそこそ通っていった
「広がる一体感」としての「家庭(家族)」。その広がりの中では「時間」はなくなる。亡くなったはずの祖母が「こそこそ通」るというのは、いいなあ。「一体感」を感じている坂多にだけ、会いに来たのだ。
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| 金井 雄二 | |
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