ぜんまいも
大きな葉となる
乞食は自然の無常を
ののしる
「ののしる」ということばのなかにひそむ音。乞食がいったい何をののしっているのか「自然の無常」というだけでは抽象的すぎるが、それはもしかするとぜんまいが大きな葉になってしまって、もう食べられないということかもしれない。しかし、こんなことは「理屈」をいってもしようがない。岡井隆ではないが、詩なのだから、こういうことはいいかげんでいいのだ(あいまいでいいのだ、だったかな?)。
この4行でおもしろいのは、「ぜんまいも/大きな葉となる」のなかにも「音」が感じられるところだ。渦を巻いたぜんまいがほどけ、葉になる。そのときの「音」はもちろん耳には聞こえない。そこに「音」があると思うとき、耳のなかに響いてくる音にすぎない。想像力の感じる音である。
そして、「音」とは、そうやって聞こえない「音」も想像として感じることができるという立場から「音」を読み直すと、ちょっとおもしろいのだ。
よろこびのよろこびの
秋のよろこびのよろこびの
神のよろこび
こばると色の空に
飛ぶひよどりのよろこびの
とけた白いしいの実を落とす
故郷の音の
去る人の音の
山の音の
あけびの皮にはみでる
にがあまい種を
舌を出して吐き出す音
さて、ここに書かれている「音」をオノマトペにすると、どんな具合に書き換えられますか?
私は実は書き表すことができない。最後の「舌を出して吐き出す音」は「ぺっ」ぐらいには書くことができるけれど、そのほかは書けない。
そして書き表すことができないのだけれど--つまり、私の肉体と西脇の書いていることばをつないで、そこから私の肉体をとおしてそれを再現するということはできないのだけれど、私の肉体のなかには変なことが起きる。
耳が透明になっていって、聞こえない音を聞こうとする。--へんな言い方になってしまったが、耳が透明になって、その聞こえない音と一体になろうとする。ぜんまいが渦巻きから葉にかわるときのように、そこには沈黙の音がある。その沈黙と一体になるために耳が透明になっていく。そういうような変な感覚が私の肉体のなかで動く。
そして、肉体は動きたがる。その欲望(?)にあわせるようにして「舌を出して吐き出す音」があり、私の肉体は自然に動いてしまう。無意識に舌が動く。
この無意識の中の感覚--これが、「乞食は自然の無常を/ののしる」の「ののしる」ともなんとなく重なる。乞食が「ののしる」のは「自然の無常」を完全に理解してのことではないのだ。ただ肉体が「ののしる」という動きを必要としていて「ののしる」のである。そんなふうに思えてくる。
![]() | 西脇順三郎全詩集 (1963年) |
| 西脇 順三郎 | |
| 筑摩書房 |
