ゴッホ展(九州国立博物館) | 詩はどこにあるか

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 「マルメロ、レモン、梨、葡萄」。初めて見る絵である。画集などに収録されているかどうか知らない。収録されていても、見逃してきた絵である。こういう1枚に出会うと、たしかに「展覧会」というものはありがたいものだと思う。図録、画集にはない何かがある。
 「マルメロ、レモン、梨、葡萄」は文字通り、4種類の果物が描かれているのだが、色使いに特徴がある。黄色を主体とした変奏(?)で構成されている。他の色、青系統の色が排除されている。
 光を反射する白っぽい黄色から、くすんで茶色っぽい影まで、あ、このなかに何色の黄色があるのだろう。もっとも明るい黄色から暗い黄色まで、光はどのように動いていくのか。色は、どんなふうにして育ってきたのか--ということを考えてしまう。
 この絵の中の、どの黄色がひまわりの花びらになり、どの黄色がひまわりの種になったのだろう。あるいは、アイリスの壺、アイリスのバックの壁の色、テーブルの色は、ここからどんな変化の果てに生まれてきたのか。さらに、自画像の顔の色は、この絵のなかでどの位置を占めているのか……。
 私はゴッホのファンではないのでよくわからないが、ゴッホが好きな人なら、この1枚から何枚もの絵の誕生を予測できるだろう。--そう思うと、とても楽しいのである。私にはわかりっこないことが、この絵のなかで起きている、ということが何ともおもしろいのである。
 この絵を中心にして、ゴッホの黄色の変化をたどると、きっとゴッホが見えてくる。そういう予感がするのである。
 この絵には、オリジナルの額がついている。そこにも黄色が塗られ、模様もついている。額も含めて1枚の絵なのだ。そのことも楽しい。画家が絵を描くとき、額を想定しているかどうか知らないが、このときゴッホは額まで含めて絵だと考えていたのだ。

 ほかの絵では「アイリス」が私は好きである。
 青、緑、黄色--その三色の変化がおもしろい。黄色の壁、テーブル、壺が背景になっているのだが、その絵を見ていると、このアイリスの青(その影としての紫)は、黄色から絞り出された補色の結晶という感じがしてくる。強烈に対立しているのだが、どこかでつながっているかもしれないという錯覚に陥る。
 右下に倒れた(こぼれた?)ひと茎のアイリスの存在もおもしろい。左上から右下に、カンバスの対角線が描かれる。もう一方の右上から左下への対角線は中央で消えるが、そのかわり2本、離れた形で存在することで、花瓶(花)が左へ倒れるのを防いでいる。そのバランスが美しい。空白のバランスが音楽を感じさせる。
 ほかの絵にもいえることだが、浮世絵から影響を受けた輪郭線--もしそれがなかったら、と考えるのも楽しい。私はときどき絵のなかから輪郭線を消し、色と色とが直接触れ合っている状態を想像してみるのだが、そのとたんにバランスが崩れてしまう。絵が倒れてしまう。不思議である。



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