何月何日東横でソバを食うのも
前世の宿命としてあきらめる
この神秘的な原因を前世の
因果応報と考える人々は
はしばみの実を食う人々であつた
売つた自分の帽子にまた
めぐり会うのも
偶然も宿命だ
すべて宿命だ
ブラーマンを考えるのも宿命だ
宿命をあきらめる男は
神やブラーマンを信ずる男だ
すべて配剤だ
この部分は詩としてはそんなにおもしろいわけではない。「何月何日東横でソバを食うのも/前世の宿命としてあきらめる」と、「売つた自分の帽子にまた/めぐり会うのも」の素材の組み合わせに、あ、まねしてみたいな、という感じがあるが、そこに絶対的な詩があるかというと、そこまでは言いたくない感じがする。
この詩でおもしろいのは、最後の行「すべて配剤だ」が、あまりにも端的に西脇の詩の特徴をあらわしている点である。
「配剤」--たぶん、天の配剤というときの「配剤」なのだが、西脇は、天のかわりに彼の感性でことばを「配剤」する。
「事実」の書き方はいろいろある。その「事実」のなかから、どの「ことば」を選び、とりあわせるか。
ためしに、こんなことをしてみる。
何月何日東横でうどんを食うのも
前世の宿命としてあきらめる
「ソバ」を「うどん」にかえると、突然、詩が消える。私の印象では詩ではなくなる。「ソバ」という音が、詩の要なのだと気がつく。
「なんがつなんにち、とーよこで、ソバをくーのも」「なんがつなんにち、とーよこで、うどんをくーのも」
「ソバ」の音は、狭い音が爆発して終わる。その爆発の感じが、粘着力がなくていい。「うどん」だと、ことばが、「ん」のなかで閉じこもってしまう。「何月何日」「東横」が「うどん」のなかでからまってしまう。からまったものも「宿命」だろうけれど、いやからまったものこそ「宿命」なのかもしれないけれど、からまってしまうと「意味」になってしまう。「ソバ」という音でばらばらになってこそ、気楽に(?)宿命ということばがつかえるのだ。
そうしたことばのバランス感覚が西脇の詩の大本にあるように私には思える。
しかし、どうして「配剤」と書いてしまったのかなあ。
これが、実は、まったくわからない。書いてしまうことで、それまで書いたことが全部「説明」になってしまう。--あ、これは逆か。それまで書いたことがすべて「配剤」を説明してしまう。
詩は「配剤」である。
それがわかるだけに、ここで「配剤」ということばをわざわざ書いているそのときの西脇がわからない。
「意味」はわかる。けれど、「意味」に詩はない。だから、私は、ここでつまずく。「誤読」できずに、さびしい気持ちになる。
![]() | 文学論 (定本 西脇順三郎全集) |
西脇 順三郎 | |
筑摩書房 |
