冒頭、夕暮れが映し出される。その夕暮れは美しい。広い空間にオレンジ色の光がゆったり広がる。このオレンジ色のゆったりとした静かさは日本にはないものである。夕暮れを、車が帰ってくる。夕暮れのなかで、車の色があいまいである。家に近づき、木々の暗い緑の陰のなかで、車の色はもっとあいまいになる。そのあと寿司を手作りしている倍賞美津子と家族のシーンがあって、突然21年後になる。そのとき、外は雨。木々はとても美しい緑をしている。静かで深い。葉からあふれそうになりながら、葉のなかにとどまっている。それを雨が包んでいる。--この緑はアメリカ映画にはない緑である。日本の緑かというとそうでもないのだが、どこかで日本の緑に通じる。なつかしい水の緑。東洋の、モンスーン気候を呼吸する緑。それを倍賞美津子がぼんやりとみつめている。まるで、雨にぬれる木々をみたことがないかのように、緑をぬらす雨をみたことがないかのように。(冒頭のオレンジ色の光の記憶があるせいか、ともかく美しく感じる。)
映画の印象は、この最初に見た夕暮れと、次に見た雨のなかの緑の印象を行き来する。たそがれのゆったりとした広がりと、一回かぎりの雨、その雨に濡れているあの緑の美しさを行き来する。異質なものなのだが、そのふたつが同時にある、ということの不思議な美しさ--その印象のなかを行き来する。
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ストーリーは、アルツハイマー症状がはじまった日本人の妻と、それを見守るアメリカ人の夫の暮らしである。当然、そこにはさまざまな困難があるのだが、この映画は、その困難さを切実に描くのではなく、不思議な静かさで描く。
静かさの印象を生み出す一番のものは、夫の態度である。家族の態度である。夫役のボー・スベンソンが大柄であるのも影響しているかもしれない。倍賞美津子が小さく見えるくらい、大きいのである。大きさに、何かが吸収されていく。
倍賞美津子が何か奇妙なことをしても、周りがパニックにならない。食卓で茹でたエビや寿司を一生懸命もりつけたり、写真を撮る息子に突然怒りだしカメラを壊したりしても、誰もあわてない。さわがない。静かに、じっとしている。落ち着いている。心の中では、いろいろな思いが渦巻いているのだろうけれど、それを内にかかえたまま、外へあふれさせない。そして、倍賞美津子の不思議な行為を吸収してしまう。(もちろん、倍賞美津子のいないところで、家族はあれこれと手だてをたてようとするのだが……。)
夫も家族も、倍賞美津子の行動を批判したり、正しい(?)行動をとるように強制したりすれば、彼女がパニック状態になるのことを知っていて、そうするのだが、それは最初に見たアメリカの夕暮れの静けさに似ている。広い空間が倍賞美津子の小さな乱れを吸収するのである。
--と、ここまで書いて、あ、この映画は「呼吸」の映画だと気がついた。
アルツハイマーを発症した妻。それを見守る夫。最初、そこには奇妙なずれがある。そのずれはもちろんなくなるものではないのかもしれないが、ずれをずれのまま受け入れ、「呼吸」を合わせようとしている--夫がなんとか妻に呼吸を合わせようとしているのがわかる。
一方、倍賞美津子の方は、何かを自分のなかから取り出したいのだが、それがうまくできずに苦しんでいる。その苦しみのなかに、ときどき「記憶」が鮮烈によみがえってくる。萩(山口県)の思い出。古い寺(?)の石段。揺れるまつりの火(?)。幼い陽に遊んだ海辺や、結婚する前に母が萩焼の茶碗を大事につつむ手つき……。それは非常に美しい。それは実際には彼女にしか見えない光景なのだが、そういう彼女にしか見えない光景(美しい輝き)を映し出される瞬間に、私は、ふと、冒頭の雨のなかの緑を見てしまうのである。倍賞美津子は、あの美しい緑を見ずに、遠い記憶を見ていたのかもしれない。もしかすると、あの緑はアメリカの緑ではなく、倍賞美津子が記憶のなかで知っているの緑の「原型」が、彼女の肉体からあふれて、いま、そこに出現してきたのかもしれないと思ったのである。
実際、あらゆるものが、ただそこにあるのではなく、倍賞美津子の肉体(いのち)から溢れ出て、具体的なもの、具体的な色、形になっているのである。家のなかのさまざまな調度、写真、その整然とした静かなものたちは、倍賞美津子そのものなのである。
最後の方に、家にある写真や萩焼の茶碗、花瓶などに、ひとつひとつ「ことば」が張られる。息子の名前、萩焼、などなど。それは一義的には倍賞美津子のうすれていく記憶を混乱させないためなのだが、それは夫にとっては倍賞美津子の「分身」を知ることでもある。
そして倍賞美津子の「分身」一つ一つに名前をつけていくとき、夫のなかで倍賞美津子がもう一度生きるのである。また、そうすることで夫自身がもう一度「生かされる」のである。
アルツハイマーの妻を介護しながら生きるとき、夫は妻を一方的に介護しているわけではないのだ。介護すること、妻の記憶をたどることで、自分の大切な一生をもう一度生きている。生かされているのは、自分だと気がつく。
その象徴が、自分を裏切った共同経営者を告発する文書を破棄するシーンである。裏切られたことにこだわり、それ以後の人生を生きてこなかったのは自分自身であると夫は気がつく。夫が自分の人生を生きてこなかったから、彼の人生を呼吸することで生きてきた倍賞美津子もまた生きることにつまずいたのかもしれないだ。
この映画は、その夫が「生かされている」と気づき、もう一度倍賞美津子といっしょに生きはじめる部分を、家のあらゆるものに張られた貼り紙でしか表現していないが、その静かな主張が、また、なかなかいい。最後に「ユア・マイ・サンシャイン」の歌が流れるが、じつにしみじみとしている。おだやかな歌声である。しっかりと生きる「呼吸」を感じさせる息づかいである。歌っているのはひとりだが、聴いている人がいる、その聴いている人の「思い」も息にのせているのが伝わってくる。ほーっ、と息が洩れる。あ、こういう歌だったのか、とその歌に気づくように、きっと夫もまた人生に気づいているんだろうなあ、と想像させる。
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