杉田成道監督「最後の忠臣蔵」(★★★) | 詩はどこにあるか

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監督杉田成道 出演役所広司、佐藤浩市、桜庭ななみ

 変な恋愛映画だね。新種の恋愛映画といえばいいのかな。
 映画の中に人形浄瑠璃が出てくるが、これは人形浄瑠璃の構造を借りた生身の浄瑠璃なのかもしれない。言い直すと・・・。
 役所広司、佐藤浩市、桜庭ななみの背後には「黒子」がいる。「忠臣蔵」が黒子である。3 人は自分で動いているようで、実は黒子の忠臣蔵に動かされている。
 人形浄瑠璃がそうであるように(あ、私はほんものを見たことはないのだけれど)、肉体も台詞も人形そのもののものではない。肉体は黒子が動かし、台詞はまた別の人が発している。観客がそれを結びつけ、想像力の中で「人間」にする。自分そのものにする。人形浄瑠璃を見るとき、人は「人形」そのものになる。「人形」には「肉体」がない。「声」がない。だからこそ、それを結びつけるとき、人は感情移入を完璧におこなえる。自分の肉体を重ね、自分の声を重ね、そこに自分を見る。誰のものでもない「中立(?)」の人形だからこそ、没頭できる。
 同じことが、(ちょっと、いや、かなり違うかな?)、この映画でも起きる。
 役所広司と桜庭ななみが対話するとき、その動き、そのことばは、実は彼らのほんとうのものではない。もっと別な「生の肉体」「生の声」が別のところにある。その生の肉体、生の声を観客は自分のなかから引っ張り出し、役所広司と桜庭ななみの肉体、声に重ねる。重ねるだけではなく、乗っ取る。
 そして感動する。泣いてしまう。
 「忠臣蔵」という、いま、そこにはないストーリーが、役所広司と桜庭ななみの生身の肉体、生の声を洗い流し、「抽象的な恋愛」(純化された恋愛)を描きだす。その、純化された世界へ観客は自分の肉体と声を持ち込み、自分のことと勘違いする。
 おもしろいねえ。
 桜庭ななみが茶屋に見染められる場面は人形浄瑠璃でなくても、たとえば歌舞伎でもいいのだろうけれど、映画の構造を明確にするためには人形浄瑠璃がいい。「人形」がいい。「人形」であるから、役者もまた「人形」になり、恋愛を純化するのである。

 書きそびれたが、この映画が美しい作品になっているのは、風景描写が美しいことも重要な要素だと思う。この世のものではないような純粋な森の奥。そのまわりの竹や木々。その緑。そして雪。それはあまりに美しすぎて、まるで舞台の書き割りであるが、それが書き割りに徹しているところが、また「人形芝居」にふさわしい。
 桜庭ななみという女優は、私ははじめてみたが、あ、おもしろいなあ、と感じた。




12月のベスト3
「武士の家計簿」
「最後の忠臣蔵」
「クロッシング」
いささか不毛の月だったなあ。


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