川口晴美「発熱」、阿部嘉昭「川幅に似たからだが」 | 詩はどこにあるか

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川口晴美「発熱」、阿部嘉昭「川幅に似たからだが」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 あ、これはいいことばだなあ、真似してつかいたいなあと思う詩に出合ったとき、ちょっとうれしくなる。
 川口晴美「発熱」。

皮膚を滑りひそかにわきのしたにはさみこまれる体温計の
内部を伸びていく水銀のように
西へ向かう午後の私鉄の空いた席に座って運ばれる

 この2行目がとてもいい。私は「体温計」ではないのだが、体温計になって、川口の脇の下に挟まれ、勃起する。あ、これって、セクハラ? 体温計のなかの水銀の伸びていく感じが、「内部を」ということばによって、私の内部で「伸びる」ものを刺激するのである。
 こんな「誤読」は川口には迷惑かもしれないが、もし私が10代なら、この1行を読みながらマスターベーションをしたかもしれない。

ぬるくあたためられたからだの内部で増していくつめたさ
うごめく鈍い光は誰にも見えない

 あ、いいなあ。
 川口は川口自身の「発熱」についてていねいに書いているのだが、なぜだか、私は痴漢になった気持ちになる。
 川口の意志というか、感情とは無関係に、私は川口のことばの一部に欲情する。そのとき、きっと川口の「からだ」の内部では、冷たい憎悪がうごめいている。でもね、そのつめたい憎悪は「誰にも見えない」。
 --書いていない。そんなことは、まったく書いていない。川口は「痴漢被害」のことを書いているわけではない。
 けれども、なぜか、私はそう読んでしまう。そして、読みながら痴漢になってしまう。最後の方を読むと、(原作の全文を知らず、私の引用している部分だけを読むと)、きっと「誤読」するだろう。

それならかたく透き通った先端を突き抜けてどこまでも行ってもかまわない
砕け飛んだ殻と触れることのできない痛みを撒き散らしながら
かくされた皮膚は笑うかたちで破れるだろう
向井の席に座って眠り書けていた知らないひとが
がくりと頽れるようにうなずいて
急行電車の扉が開く

                (川口晴美「発熱」の初出は、「かばん」6月号)



 阿部嘉昭「川幅に似たからだが」も、書き出しが刺激的だ。

川幅に似たからだが
ひとのいない夕暮れに
みずから陽炎となり
水を運ぶことがあるだろう

 私は「からだ」ということばに弱い(ひきずられる)のかもしれない。
 この詩がおもしろいのは、「川幅に似たからだ」というものが実際にはありはしないことである。私は田舎の山の中で育ったが、その山のなかの小さな川でも、人間のからだの幅よりは広い。人間のからだを基準にしていうと、そんな狭い川幅など、きっとどこにもない。
 それなのに、この行にひかれてしまう。
 このとき、私は「川幅に似たからだ」ではなく、「からだの幅に似た川」を思い出しているのではなく、「からだの幅」で「川」が生まれるのを見ているのだ。ありもしないものが出現してくるのを見ている。
 夕暮れ。ゆらゆらゆれる陽炎。そこに「逃げ水」はあるか。私は「からだの幅」で「逃げ水」を見てしまう。そして、その「逃げ水」を阿部が「川」と呼んでいるのだと「誤読」する。
 「逃げ水」とともにある「遠いからだ」--それは「逃げ水」をひきつれて流れる「川」なのだ。
 このとき、「川」となった「ひと」は暑苦しいだろうか。暑苦しいかもしれない。けれど、そこにある「逃げ水」のまぼろしが、不思議な涼しさをも感じさせる。「逃げ水」が涼しいというのは幻だし、矛盾なのだが、矛盾だからこそ、そこに「正しい日本語」では書けない真実--詩という真実がある。




EXIT.
川口 晴美
ふらんす堂

昨日知った、あらゆる声で
阿部 嘉昭
書肆山田