ナボコフ『賜物』(22) | 詩はどこにあるか

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ナボコフ『賜物』(22)

 ナボコフのことばは、「透明」である。これは内部に「濁り」(不純物)がないという意味である。--と、きのう書いた。
 ただし、これには補足しなければならないことがある。
 「濁り」(不純物)はないが、「異物」はある。混ざっている。たとえば、「黒いもの」が。しかし、その「黒」も透き通って、どこまでも見通せる。そこから始まるのは「黒--抽象的な黒、透明な黒」なのである。その黒は、いわばサングラスの「黒」かもしれない。自分の目を他者から隠しながら、しかし、対象をしっかり見てしまう。

あの瞬間、私はおよそ人間に可能な最高度の健康に到達していたのではないかと思います。私の心は危険な、しかしこの世のものとは思えないほど清らかな暗黒に浸され、洗われたばかりだったからです。
                                 (38ページ)

 「清らかな暗黒」と書いて、そのあと、すぐ次の文章がつづく。

そしてこのとき、身じろぎもせず横たわったままでいると、目を細めもしないのに、心の中に母の姿が見えたのでした
                                 (38ページ)

 「目を細めもしないのに」は、この文章の中でとても重要な表現である。「心の中に」何かを見るとき、人はたいてい「目を閉じる」。けれどナボコフは「目を閉じもしないのに」ではなく、「目を細めもしないのに」と書く。
 「目を細める」は、実は、近眼の人間が「遠く」を見るときにする一種の「癖」である。きのう読んだ文章のなかに「遠く」ということばがあったが、ナボコフは「遠く」を見るときの視線と、母を見る視線を対比していることになる。
 ナボコフは、母を「遠く」ではなく、「近く」に見たのである。そして、その「近く」というのは「心の中」であるのだが。
 「心の中」と言えば、きのうの、ベッドの中でみた「どことも知れない遠く」も心象風景、つまり「心の中」の風景であろう。「心の中」で見るものでも、ナボコフは「遠く」と「近く」を区別する。
 そして「近く」を見るとき、そこに「危険」と「暗黒」が親和するのである。
 先にサングラスのことを少し書いたが、サングラスが目を隠すのは「近く」の人に対してである。「近く」から隠れるためにサングラスがある。
 主人公が「近く」に見た母というのは、買い物に出かける母であり、そのとき叔父(母の弟)に声をかけられたのに気がつかない母である。そして、その母は叔父と一緒に歩いていた男にも目撃されている。それはそれだけでは「秘密」にするようなことではないかもしれないが、その知らない男に目撃されているということを、ナボコフの主人公は「危険」、ただし「清らかな・暗黒」との親和力のなかにつかみ取るのである。

 ナボコフには、あるいはナボコフの主人公には、自己の内と外の区別はない。ただし、その自己の外そのもののなかに「近く」と「遠く」がある。その「近く」と「遠く」を意識するのがナボコフの主人公である、ということになる。





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ウラジーミル ナボコフ
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