ナボコフ『賜物』(8) | 詩はどこにあるか

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ナボコフ『賜物』(8)

彼は晴れ晴れとした微笑みを浮かべるだけにとどめ、脇に跳びのいた猫の体について行き損ねた虎縞模様につまずきそうになった。
                                (15ページ)

 人間が猫につまずきそうになるということはある。けれど、猫が跳びのいて、その猫の体に猫の体の模様(虎縞模様)がついて行き損ねるということはないし、したがって、そのついて行き損ねた「模様」につまずくということはない。
 ないのだけれど、この描写はとても「正確」であると感じてしまう。
 人間の肉体の反応は複雑である。眼が反応する。足が反応する。眼と足とのあいだに、「ずれ」がある。
 何かがふいに足元で動く。跳びはねる。猫だった。それは虎模様だった。その猫という意識から、虎模様という意識のあいだまでの一瞬。そののとき、たぶん、足への意識がうすれる。足がもつれる。つまずきそうな感じ--というのは、そのことを指している。
 この一瞬の出来事を整理しなおすと(?)、まるで猫の虎模様が、猫のあとから動いたようで、そして、その残っていた虎模様につまずきそうになった、ということになる。
 これは、まあ、強引な「論理」であるけれど、そういう面倒くさい「論理」にしなくても、というか、そんなことをする前に書かれていることがわかってしまう。
 なぜだろう。
 私たちは誰でも、そういう眼と足との動きのずれ、一瞬の余分な意識の動きが肉体に作用して、肉体をぐらつかせることを知っているからだ。意識(認識--眼)と肉体(足)のあいだには、連続性と同時に「ずれ」がある。「ずれ」は眼と足との、脳からの距離かもしれないが……。

 余分なことを書いてしまった。

 ナボコフの描写が美しいのは、そこに必ず「肉体」があるからだ。華麗で細密なことばが動くので、そこには華麗で細密、繊細な精神(こころ)があると思ってしまう。もちろんナボコフの精神(こころ)は繊細なものに反応し、それを華麗に仕立て上げるとき、すばらしく魅力的に輝くけれど、その感覚はしっかりと「肉体」を踏まえている。そして、そのナボコフの「肉体」感覚が、私たちの(読者の)「肉体」のなかに眠っている感覚を呼び覚ますのだと思う。
 私たちはたしかに「模様」や「影」--意識の「残像」につまずくということがある。「肉体」がつまずくのではなく、「意識」(感覚)がつまずき、それが「肉体」を動かすのである。つまずかせるのである。




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