小川三郎『コールドスリープ』 | 詩はどこにあるか

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小川三郎『コールドスリープ』(思潮社、2010年09月05日発行)

 小川三郎の詩はとても長い。実際には長くはないかもしれないが、読んだ印象は終わらないのじゃないかと思うくらい長い。
 「世界の果て」という詩がある。

戦争へいこう。
どこまでも戦争へ行こう。
もう帰ってこなくてもよくなくなるまで。
遥か遥か遠くまで
胸を張って戦争に行こう。

全財産をはたき
必要なものを買い揃え
地下鉄に乗って終点まで行き
階段を昇って地上に出て
そこから何処までも歩いて
戦争へいこう。
みんなでいこう。
もう帰らなくてもよくなくなるまで。

 「戦争へいこう。」はほんとうの呼びかけなのか、それとも逆説なのか。考えればいろいろ考えられるかもしれない。けれど、それを考えたいというような欲望が私には起きない。書き出しの3行を読んだだけで、私は、ずいぶん長く小川のことばを追っているような気がしたのだ。
 リズムが合わない。--これは小川のせいではなく、単に私と小川のことばのリズムが合わないということなのだが、どうにも合わない。普通、ことばは繰り返されると、繰り返しのなかでことばがだんだん速くなる。ことばになれて、はやく読んでしまう。先日読んだ青木栄瞳はことばを記号にしてしまって、そこからことばの速度を剥奪し、速さということさえ無意味にしてしまっていた。小川のことばは、いわばその対極にある。繰り返しは速さではなく、停滞である。留まるために小川はことばを繰り返しているように私には感じられる。

戦争へいこう。
どこまでも戦争へ行こう。

 これは、ことばだけ。「いこう」「行こう」とひらがなのことばが漢字のことばにかわるのだが、そのことさえスピードが上がったという印象が私にはしない。「行こう」が「いこう」を振り返るような、奇妙な停滞感がある。

もう帰ってこなくてもよくなくなるまで。

 「なく」の音が繰り返され、そこでは「意味」さえ停滞してしまう。「帰ってこなくてもよくなる」と「帰ってこなくてもよくなくなる」と、どう違う? 「帰ってこなくてもよくなくなる」というのは、どっち? 帰ってくるの? 帰ってこないの? どっちを前提としている? どっちを前提にしてことばを動かしている?
 動かないことばの前には「遥か遥か遠く」という距離がどれくらいかさっぱりわからない。実感がわかない。「いこう、行こう」といいながら留まっているのだから、「遠く」は「遠くまま」のである。絶対に、その遠く(世界の果て?)へはたどりつけないことだけがわかる。
 まるで、カフカである。

地下鉄に乗って終点まで行き

 ほんとうに終点はあるのか? たどりついたと思っても、そこからふりかえれば、いま出発してきたところが新しい「終点」になりはしないか。階段を昇って、地上に出て、それからいま来た地下鉄の上を逆にたどるだけなのではないのか。
 あ、そうなのかもしれない、と思う。
 小川が書いているのは「往復」なのだ。最初、私は「停滞」と書いたが、停滞ではなく、「往復」なのだ。

戦車が疾走し、戦闘機が飛び交うなか
いままで誰も行かなかった土地を目指して
迷わず進もう。
全ての人が死に絶えるまで
戦争が終わることはない。
全ての網膜に焼きつくまで
戦争が終わることはない。
質問は既に尽きた。
あとはただ
前進するのみ。

 「いく」「行く」「前進」--だが、その「方向」は? 「いままで誰も行かなかった土地」とは、言い換えれば、人が出発してきた土地である。そして、そこへもどってしまえばまた、いま来た帰り道が「誰も行かなかった土地」になる。「土地」というより「方向」(目指すところ)になる。果てしない「往復」があるのだ。

そして
死が軽やかに宙を舞い
無人の地球を歌っている
世界の果てへと辿りついたら
もう大丈夫だから、そこで
人間の価値を決めよう。

 最終連。
 とても唐突に感じる。「そして」が変なのだと思う。果てのない「往復」運動に、「そして」はないのである。ないはずである。それなのに、小川はここで「そして」と突然、ジャンプする。
 変な言い方になるが、ここでは小川は、それまでのことばの運動に「けり」をつけている。むりやり終わらせている。このむりやりは、「往復」には終わりがないことを知っているところから生まれている。
 「そして」などありえないのに、むりやり「そして」ということばで、いままでの運動から違ったものになる。違ったものにする。それは、その「異質」によって、それ以前のことばを、あ、この「結論」以前が小川の「思想」なのだ、という思いを浮かび上がらせる。
 「人間の価値」というような「結論」は、結局のところ、それまでの「往復」の評価である。どうしても、そこへ帰っていくしかないのに、あたかも「運動」の外に何かがあると書いてしまうこの矛盾のなかに、「往復」がもう一度よみがえるのだ。

 「寄り添う。」の最終連もおもしろい。

偶像が空を支配する五月に
あなたはただ
人間という言葉によって
崩れ落ちる春となり
音速にて踏みとどまる。

 「音速」と「踏みとどまる」は矛盾する。音速で「往復」するとき、その運動、ふたつの「場」の間で動かない。「往復」による「停滞」、それはかけ離れた「遥か遥か遠く」を「ここ」で重ね合わせるということかもしれない。そういう力業のためには「音速」というスピードが必要である。小川の精神は、「往復」を「音速」で動いているのである。そのとき、小川は「現実」を耕し、どこにもなかった「現実」へ帰っていく。傍から見れば「踏みとどまる」という状態へ。






コールドスリープ
小川 三郎
思潮社