ちょっとびっくりする映画である。井伊直弼を暗殺する「桜田門外ノ変」。それは実にあっさりと実現する。始まってすぐに、いわばクライマックスの暗殺シーンがある。あれ、もうおしまい? 「十三人の刺客」を最近見たばかりだったので、そんな不思議な気持ちになる。ところが、そのあとが延々と終わらない。この映画、終わらないんじゃないか、と思うくらい終わらない。カタルシスにつながるストーリーがない。クライマックスがないのだ。
では、おもしろくないか--といわれれば、そうでもない。なかなかおもしろい。そうなのか、昔の侍はひとりひとりが政治家だったんだなあ、と考えさせられる。(いまの政治家は、だれひとりとして政治家ではない。政治屋--政治で金を稼いでいる人間だね。)刀をつかって人を切るだけではなく、ことばでも堂々と相手を切る。論理を喝破する。説得する。共感を引き出す。毎日毎日、ことばの訓練をしているのだなあ、と感じさせられる。映画だから、まあ、凝縮したせりふ(ことば)になるのだと言われればそれまでだけれど、いやあ、なかなか重いなあ。
まあ、それはさておいて。というべきなのか……。
この映画がおもしろいのは、暗殺にかかわった水戸藩の侍たちを、ひとりひとり死なせていることである。「死にざま」ということばがあるが、ひとりひとりの「死にざま」をきちんと映像化している。最初の方に、暗殺直後、負傷した四人が逃げきれないと悟って自刀するシーンが出てくるが、その死はたしかに「死ぬことで生きる」という侍のこころをきっぱりと表現している。(生きざま、ということばが最近見受けられるが、これは「死にざま」こそが「生きる」につながることを知らないひとが思いついたことばだろう。)
ひとが志をもって、自分のいのちを生きる。「生きざま」。それは、絶対にひとくくりにできないものである。たとえ井伊直弼の暗殺という「計画」のために団結していた人間であっても、それは「ひとくくりの団体」ではなく「一人一人」である。そのことを、この映画はしっかりと描いている。
象徴的なのが、生き残った侍たちに死罪を言い渡すシーンである。七人(だったかな?)をひとりひとり立たせ、処刑場へ連れていく。それを省略せずに、ほんとうにひとりひとり描いている。正座してすわっている侍が「立て」と言われて立ち上がり、草履を履く。引き立て役の役人を呼ぶ。処刑場へ連れて行かせる。そのひとりひとりに、字幕で名前と享年が表示される。
歴史をつくるのは、ひとりひとりの人間である--という強いメッセージがこめられている。しかし、そのメッセージはうさんくさくない。ほんとうに、本心から発せられたメッセージである。
あ、いいシーンだなあ、と思った。
この映画で残念なのは、セットがいかにも安っぽいところである。背景に実感がない。武家屋敷や街並みの外観が安っぽい。室内はろうそくの明かりまでていねいに描いているのに、外のシーンは激しく手抜きである。
侍たちをひとりひとりていねいに描くなら、風景もていねいに描くべきである。
主人公の愛人を拷問するシーンの石など、発泡スチロールに色をつけているだけ、という感じだ。片手でもてるような軽い感じしか伝わってこない。こんな手抜きが、侍たちのいのちの重さを軽くしてはいないか。
降ってくる雪がなかなか美しく撮れているだけに、とても残念である。
また政治家批判が、国会議事堂の実写をまじえることで、露骨にでているのも、この映画を軽くしてはいないかと疑問を感じた。
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