西岡寿美子「ことづて」 | 詩はどこにあるか

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西岡寿美子「ことづて」(「二人」287 、2010年10月05日発行)

 ひとは誰と、あるいは何と「いっしょに」生きているのだろうか。ひとりであっても、だれかと、あるいは何かと「いっしょに」生きてしまう。そして「いっしょに」は生きられない、ということもある。けれども「いっしょに」生きられないにもかかわらず、その「いま」「ここ」にいないだれか、存在しない何かと、ことばは「いっしょに」生きてしまう。
 西岡寿美子「ことづて」を読みながら考えたのは、そういうことである。

キンモクセイに十二
モッコク マキの下枝に五
今年わが二羽から十七のセミが生まれた
恐らくクマゼミであろう
ふた昔前はアブラゼミが主であったが

ツクツクボーシやカナカナを
ここから巣立たせたいとずっと願って来たが
それは叶わないことらしい
あれらは種の中でも霊的な存在で
選ばれたどこかに彼らの聖地が卜されていそうに思える

数を頼むことなく
他が競う油照りの昼には声を発せず
人や鳥や虫のまだ起き出さない暁闇や
大方が黙す黄昏時にひっそりとうたを届ける
カナ カナ カナ カナ と
ツクツクボーシ ツクツクボーシ ツクイヨー ツクイ と

内に籠もる声の質からか
耳を潜めさせる間の取り方からか
何よりもうらさびしげな独りうただからであろう
あれらの声を聞くと遠くへ逸らせたわが心が
うつつの世界へと呼び戻される

 「いま」西岡はツクツクホーシの声を聞いているのだろうか。そういうふうにも読むことはできるが、私は聞いていないと感じて読んだ。
 「いま」「ここ」にはツクツクホーシはいない。どんなセミもいない。西岡はただセミの脱け殻を見ただけである。そして、ここにいないツクツクホーシを思っている。思うこと、想像することが、西岡にとって「いっしょに」生きることである。
 西岡はそして、ただ想像するのではない。その声をはっきりと自分の「肉体」のなかに再現する。実際に声に出すかどうかは問題ではない。声に出さなくても、「耳を潜めさせる間の取り方」を再現する。
 いや、その声を聞いたときの「肉体」を再現する、という方が正しいかもしれない。
 西岡はツクツクホーシと「いっしょに」いるのではなく、かつてその声を聞いて「耳を潜めさせる間の取り方」と感じてしまった「肉体」と「いっしょに」いるのである。
 その「肉体」は「心」そのものであり、「遠く逸らせた」ものなのだが、ツクツクホーシの声を想像するとき、その「心」と、その「心」をかかえこんだ「肉体」そのものが、「いま」「ここ」へ、つまり「うつつの世界へ」「呼び戻される」。

 何かを想像し、その存在を「いま」「ここ」へ呼び出すということは、「頭」の問題ではないのだ。それを体験したとき、感じたときの「肉体」そのものを呼び出すことなのだ。
 だれか、何かと「いっしょに」生きるのではない。「いま」「ここ」に存在しない「肉体」と「いっしょに」生きるのだ。

 たとえばきのう読んだ長嶋が、死んだ父を想像し、その「肉体」と「いっしょに」存在するとき、長嶋の「肉体」のなかには、父と「いっしょに」生きた「肉体」が呼び戻されている。だから、そのとき長嶋は父を感じるのではなく、父と「いっしょに」いた長嶋自身を感じるのだ。
 そして、そういうふうに過ぎ去った「とき」を感じること、過ぎ去った「とき」と「いっしょに」生きるからこそ、その「肉体」はこれから先に起きることも「肉体」の事実として知ってしまう。それは「予知」というようなものではない。「予知」をとおりこしている。「事実」として知ってしまうのだ。
 「肉体」が「過去」と「未来」をつないでしまう。

クマゼミやアブラゼミのような大型種は
まだ熱風の舞ううちに
路面にコロンと仰向いて果てているのを見るが
あの者らもうた盛りの予期せぬ生き倒れであろう
乾いて清げな身の処し方とは思えるものの

終わりも見えず
生まれ出る姿はなお露(あらわ)にせず
声さえも低く抑えた慎ましい者らも行ってしまった
そくそくといのち薄い思いがしてならぬ

カナカナよ
ツクツクボウシよ
お前らの帰るところはわたしの父母の住む世界ではないか
伝えておくれ
面影を両親(ふたおや)にそっくり写した子は
今年も肥松の束を宵闇で焚いていたと
ささやかな膳を座敷へ調えて待っていたと

 このとき「未来」は「時間」ではない。「時間」を超えてしまう。「死後の世界」までを含んでしまう。そこには「時間」などない。
 西岡はカナカナ、ツクツクボウシに「ことづて」をしているが、その「ことづて」を届けるのは、セミなんかではなく、「いま」「ここ」にある「肉体」である。「いま」「ここ」にはセミなどいない。西岡の「肉体」しかないのだから。

 生きる、と「私」の「肉体」を生きるだけではない。そのときだれか、何かと「いっしょに」生きている。そして、「いっしょに」生きていると感じたとき、その感じた「肉体」のなかには、「いま」「ここ」にあるのとは別の、時間を超えた「肉体」が存在していて、それは「私」を超える。「時間」を超える。そして、繰り返されてきた「肉体」になるのだ。「いま」「ここ」にある「肉体」のなかにある「肉体」が、西岡を超えて、世界へ広がっていくのだ。

 --同じことばの繰り返しなので、たぶん、この文章を読んだひとは、これはいったい何?と思うかもしれない。
 同じことばだけれど、同じではない、としか、私には言えない。
 カナカナ、ツクツクボウシとつながることで、死んでしまった父母に「ことづて」をする西岡の詩を読み、それに感動しながらこんなことを書くと矛盾しているように感じられるかもしれないけれど、私は「死後の世界」というものがあるとは考えていない。あるのはただ、「いま」「ここ」の「肉体」でけである。「精神」というもの、存在はしていない。ただ「肉体」だけが存在していると感じている。ただし、その「肉体」はいろいろな方法で「自分の肉体」を超えてしまうことがある、と信じている。その「肉体を超えた肉体」のことを、あるひとは「精神」と呼ぶのかもしれないけれど、私はそう呼びたくないのだ。「精神」と読んだ瞬間にはじまる「二元論」の世界が、私にはどうも納得できないのである。




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