「比喩」を超えることばがある。「比喩」は、いま、ここにないものを借りて、いま、ここにあるものを特別な存在にかえることばの運動だが、そういうときの「いま」とか「ここ」とか「ある」とか「ない」という意識をたたきこわして、「肉体」をぐいとむきだしにすることばがある。
青山かつ子『野菜のめぐる日』の「父」。
父の骨をひろう
「なんどか足を折っているのにたいした骨だ」
自分の骨をつまみながら
父はしきりに感心している
とうさんはもう死んでいるのよ
ともいえずに
いっしょにつまんだ骨を骨壺に入れる
ここに書かれている「父」は「比喩」ではない。つまり、「いま」「ここ」にいないのではなく、まさに「いま」「ここ」にいる。それは骨になって「いま」「ここ」にいるのではなく、青山の「肉体」になって、「いま」「ここ」にいる。青山の「肉体」は青山であって、青山ではない。青山と「父」とが「一体」になって、「いま」「ここ」で父の骨をひろっている。
この「一体」の状態を、青山は「いっしょに」ということばにしている。
「いっしょに」ということばが、たぶん、青山の「思想」なのである。
青山は、昔、父から何度も足の骨を折ったという話を聞かされたのかもしれない。足の骨を何度も折ったけれど、ちゃんと歩いて、働いている。たいした骨ではないかそういう記憶が「肉体」のなかから甦って、父がこの骨を見たら、きっと「なんどか足を折っているのにたいした骨だ」というに違いない。その「確信」が「いっしょに」ということにつながるのだが、青山の「いっしょに」はそれだけではない。
きのう読んだ、つる見の「一体」に「なる」の「なる」とは、ずいぶん違っている。
とうさんはもう死んでいるのよ
ともいえずに
「一体」のなかでも青山の、青山自身であることは消えない。「一体」とはいうものの、融合しない。「父」がいて「青山」がいる。ふたりがいる。つまり、「区別」が存在する。
ひとつの「肉体」なのに。そしてひとつの「こころ」なのに。
でも、これは、不思議ではなく、当然のことなのかもしれない。和泉式部は、恋を歌って、こころは千々に砕けるけれど、ひとつも失せはしないと嘆いた(苦しみ、同時に喜びを感じた)が、青山の「いっしょに」は、その砕けたこころの数のようなものである。対立(?)したまま、同時に存在することができる。
それは、少し角度をかえて見つめなおすと、「肉体」は対立するもの(矛盾)を「いっしょに」かかえこむことができる力をもったものであるということにある。
「対立」を「いっしょに」かかえこんでいるからこそ、2連目がある。
のど仏を入れ終えると
父は熱い骨壺を抱いてはなさない
わたしが持っていくというと
自分の始末は最後まで自分でするといってきかない
頑固さは死んでもなおらない
「青山」と「父」は「いっしょに」いると必ず「対立」する。そして、その「対立」を青山は、「死んでもなおらない」と思っている。思いつづけていた。だから、父が死んだいまも、青山の「肉体」のなかで、「父」は我を張っている。そして、それに対して「青山」は同じように我を張って、「頑固さは死んでもなおらない」と言い放っている。
いいなあ、この関係。
「肉体」は家族が住む一軒の家のように、また複数の人間といっしょに住む「場」なのだ。そして、我というか、こころというか、そういものは「対立」していても、家族が「いっしょに」一軒の家にいるように、他者もまた青山の「肉体」にいっしょにいることができる。
青山の「肉体」は人間とは(あるいは、そのこころは、というべきなのか)、対立するものであると知っている。対立するものだからこそ、別々の肉体を持って生きている。けれども、その肉体は互いに触れ合い、触れ合うことで他者を自分のうちに招き入れ、「いっしょに」生きるということができる。「肉体」は何でも受け入れることができるのだ。特に、愛していれば。愛、なんて、特別に意識もしないままに。
この「肉体感覚」はすごいなあ、と思う。この「肉体の思想」はすごいものだと思う。そういうすごい思想を、青山は「とうさんはもう死んでいるのよ/ともいえず」とか「頑固さは死んでもならない」とか、日常のことばそのままで、言語化してしまう。
こういうことは、流行の(もう、流行もしていないか……)フランス現代思想のややこしいことばよりもはるかに強烈で、すごい。
青山がこの詩で書いたことばは、100 年たとうが200 年たとうが、父と娘が生きている限り、同じようにして甦る(生きつづける)ことばである。「肉体」として引き継がれていくことばである。
このあとも、とてもおもしろい。(おもしろい、という表現が的確かどうかわからないけれど……。)
奪い合っているうちに落としてしまった
割れて散らばる骨
頭蓋骨 鎖骨 胸骨 肋骨
なきながら形のない骨をつまむ
大腿骨 座骨 頸骨 手骨…
なみだはまたたくまに
白い骨にしみこんでいく
父はかすかに笑いながら
むこうに消えた
骨をひろい、骨壺をだれが抱えるか--というところまでは、「父」が「青山」の「肉体」に入ってきていた。ところが、骨壺を落とし、骨をあらたにひろいはじめると、直だが零れ、その涙となって、青山は「父」の「骨(これは、父の残された肉体である)」に「しみこんでいく」。
青山は父の骨のなかで「いったいに」なる。骨といっしょに生きる。
「父」が消えたのではなく、ほんとうは「青山」が消えたのだ。このとき青山は「肉体」を失っている。涙になってしまっている。涙だけが存在し、肉体は消えている。
けれど、それを「父は(略)/むこうへ消えた」と書いてしまう。「父」と「青山」は、いつでも「いっしょに」いるから、それは、どう書いても同じだ。だから、そう書いてしまったのだ。
父と青山はいつでも「いっしょに」いる。父はむこうへ消えたふりをしながら、いつでも、「ここ」へ帰ってくる。「五月」という作品。
風呂場から鼻歌が聞こえる
いつ戻ったのか
父は籾をつめた麻袋のかたちで
湯船につかっている
あの世にいっても
今頃になるとじっとしていられないのは
いかにも貧乏性の父らしい
肩に湯をかけながら
いちども背中を流したことがなかった と思う
-そろそろだな--
みると籾の先端が割れて
うっすらと父の体が萌えている
ホタルブクロが咲き
かっこうが鳴いている
父のいのちが
いちめんのみどりにそよいでいる
秋になったら
まっさきに「ひとめぼれ」を供え
わたしはつややかに光る
父をたべる
青山は父といっしょにこめづくりをしたことがある。(手伝ったことがあるのだろう。)五月になれば、父がしていたことが思い出される。肉体のなかに父が甦る。その父は、「父」という作品にでてきた父そのままに、「精神」なんかではなく、やっぱり「肉体」である。その「肉体」は、どこかで、つる見の肉体にもつながった部分をもっていて、父は父であると同時に、種籾であり、そこから育っていく稲であり、米である。父は父がつくっている「米」と「一体」である。(いっしょに、ではない。)
だから、青山は、秋になって新米がでれば、それを「父」としてたべるのである。そうして、青山の「肉体」にとりこむ。
そのとき「米」と「肉体」は「一体」になる。けれど、きっと、父は「一体」にはならず、「どうだ、おれのつくった米うまいだろう」と「いっしょに」青山とごはんをたべるんだろうなあ。青山は「何いってんの、わたしが炊いたからおいしいのよ」と口答えするかもしれない。
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