「失われたとき」のつづき。
俗なことば、といっていいのかどうかわからないが、西脇の詩には、私の感覚からすると「俗なことば」が頻繁に出て来る。
リキュア・グラスのようなヴィーナスが
山際にふるえる九月の夕方近く
無限に近い悲しみを背負つて
すみれ色の影のある壁によりかかつて
永遠にふるえる存在の涙をさがした
「涙」ということば自体は「俗」ではないかもしれないが、「悲しみ」「すみれ色」「影」ということばといっしょになると、非常にセンチメンタルになる。「意味」よりも先に「感情」があふれてくる。
こういう「感情」に「無限」「永遠」「存在」という堅苦しいことばがぶつかる。そうすると、センチメンタルもつきつめ方しだいて「哲学」になるような気持ちになる。一瞬、「感情」が破られたような気持ちになる。
あ、でも、私のこの書き方は、間違っているね。
西脇は「無限」「永遠」「存在」ということばを先にもってきて、それに「悲しみ」「すみれ色」「影」「ふるえる」「涙」をぶっつけている。
「無限」「永遠」「存在」は、西脇にとって「哲学」のことばではなく、センチメンタルなことば以上に「俗」なのものなのかもしれない。その「俗」を悲しみ」や「涙」という「俗」で破ろうとしている。
だから、「涙」という「俗」なことばが、それ自体では「俗」なのに、この詩のなかでは「俗」ではなく、もっと違うものになる。
なんといえばいいだろう。
粗野--ちがうな。荒々しい何か。野蛮--あ、きっとそうなのだ。野蛮なのだ。
西脇は野蛮の美しさ、強さを書いているのだ。
「背負つて」「よりかかつて」という脚韻(?)の響きを「さがした」が破るとき、その「が」という濁音がとても美しい。ここでいったん世界が完結する、という印象がする。「無限」「永遠」「存在」に呼応する漢字塾語の動詞では、野蛮は見えてこない。「さがした」という日常のことばだからこそ、それは美しい。
野蛮がいったん成立すると、むきだしになる「いのち」、汚くよごれたものが「俗」から「聖」にかわる。
神聖なものはこのとうもろこしと
この乞食のつぶれた帽子だけになつた
野ばらのとげに破れ
やぶじらみがついた
この冠だこの夕暮の冠だ
「乞食」「やぶれた(帽子)」「とげ」「破れ」「やぶじらみ」。破れ目からのぞくのは、しぶとい「いのち」である。「いのち」があざやかに見えてくる。
それは、真っ白な肌に流れる血のように赤い。鮮烈だ。
![]() | 西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2 |
西脇 順三郎 | |
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