岸田将幸「粉々に」を読むと、抒情というものがなつかしくよみがえってくる。
僕は一つの元凶だ、なお
「元凶」というものはほんらい肯定されるべきものではない。それを「元凶だ」と断定する。その断定のなかには、矛盾がある。否定すべきものを存在として認めるという矛盾がある。
「なお」は、この矛盾を強調する。
「元凶」でないあり方がどこかに思い描かれている。
この矛盾、いまあるものを「否定」すべき形で存在させながら、そうではないものを夢想するときの--その抒情がなつかしい。
抒情とはいつでも矛盾だったのだ、と思い出す。
君がいない時間を僕は数えない、これはぼくの時間ではないから
これは君に帰する時間、僕は君が数える時間を所有しない
君の不在、これに耐えることが何に決定的に耐えなかったことの結果なのか、僕はずっと考えている
「耐えること」「耐えなかったこと」が、ここでは強烈な結びつきの中で語られる。「元凶だ、なお」というときの「断定」と同じ強さである。
「断定」が強いから--断定の強さにことばがひっぱられて、ふつうではないことばになる。「学校教科書」の文法では理解できないものを、存在の「必然」として見せてしまう。
ことばが、そう動くなら、ことばの動いた通りに「世界」は「ある」。あらねばならない。
僕は一つの元凶だ、それは失われない消えるだろう
しかし、この「失われない」と「消えるだろう」の結びつきは何だろうか。矛盾だろうか。必然だろうか。それはふたつのありようではなく、もしかすると「消えるだろう」ということが「失われない」ということかもしれない。
消える「こと」が失われない。
書かれない「こと」があるのだ。
消える「こと」が失われない。失われない「こと」として消えるという「こと」がある。それは、つまり、永遠に「消える」という「こと」でもある。永遠に消えるのに、「消える」という「こと」自体は失われない。
そこには「こと」がある。そして、それは矛盾である。そしてそれを岸田は「断定」している。
抒情とは「もの」ではなく「こと」である。「もの」は失われるが、「こと」は失われない。「こと」はそして、消えるふりをしながら、つまり消えながら、消えるという「こと(葉)」のなかに生きつづける。「もの」は失われ、消えても、「こと」はことばとなって、失われない。
次の部分がおもしろい。
僕は電車に乗って、
人を愛することは、その人の生地を愛することであることを確かめようとしている
十歳くらいだろうか、女の子が「あんな高いところに文字が書かれている、see you!」と外へ手を振っている
そうだね、see you だよね、僕らが耐えなければならないことは、あなたともともと分かれて在ることだよ
ね、だから文字はあんな高いところに書かれてあるんだよね、僕らの子供ではない子がたくさん載っているね、この「ね」だけを君に伝えたかった
「こと」ということばがたくさんつかわれている。けれど、そこに書かれている「こと」よりも、
僕は一つの元凶だ、それは失われない消えるだろう
の1行の中に書かれなかった「こと」があるように、この部分にも書かれなかった「こと」がある。それがおもしろい。「こと」と書かれずに「ね」と書かれている。
「ね」は「こと」である。
文字があんなに高いところに書かれてあるんだ、という「こと」
僕らの子供ではない子がたくさんのっている、という「こと」
ことの確認が「ね」である。
断定のかわりに、ここでは確認が動いている。
岸田のことばのなかには「こと」があふれている。書かれないないことによって、その「こと」は増殖していく。「こと」とは「精神」と「感情」がとけあった状態であり、それは私には「抒情」に感じられる。
それがなつかしい--というのは、たぶん、私が詩を読みはじめたころ、詩の「こと・は」は「こと」を巡って精神と感情がしっかり融合して、精神でありながら感情である、つまり一種の矛盾の結合として存在していたからだと思う。
いま、それを、岸田のように、溶け合って、見えない「こと」(書かれない「こと」)として書く詩人は、ちょっと思い出せない。
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