谷川俊太郎「絵」 | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎「絵」(朝日新聞2010年10月3日夕刊)

 谷川俊太郎の詩は、ときどき感想のことばがつながらない。どう感想を書けばいいのかわからない。
「絵」は短い作品である。

女の子は心の中の地平線を
クレヨンで画用紙の上に移動させた
手前には好きな男の子と自分の後姿(うしろすがた)
地平に向かって手をつないでいる

何十年も後になって彼女は不意に
むかし描いたその絵を思い出す
そのときの自分の気持ちを
男の子の汗くささといっしょに

わけも分からず涙があふれた
夫に背を向けて眠る彼女の目から

 最初は1連目のことばの動きに、夢見るこころをそのまま見るようで、そのことをなんとか書きたいと思った。「女の子は心の中の地平線を/クレヨンで画用紙の上に移動させた」というのは、どきどきするような美しさだ。地平線は、心の中ではどんな位置にあるのだろう。画用紙に引いた地平線と同じ位置だろうか。画用紙に移すとき、心の位置より高い位置にしたのだろうか。低い位置にしたのだろうか。地平線までの「距離」をどんなふうに「絵」にしたのだろうか。地平線は、少女と少年の頭上にあるのだろうか。あるいは、たとえばふたりの胴のあたりか。地平線の位置によって、ふたりの「未来」の大きさも違って見えるような気がする。
 こんなことを思うのは、2行目の「移動させた」ということばの力だ。画用紙の上で、地平線をどこに引こうか考えている少女が、ふと目に浮かぶのである。「未来」をどんなふうに描こうか、考えている少女の気持ち、喜びと不安が見えるように感じられるからだ。
 そのときは、喜びと不安は存在せず、単にきよらかな夢だったかもしれない。けれど何十年もたってみると、地平線を「移動させる」という行為のなかに、無意識の喜びと不安があったような気がする。少女はそんなことを感じたのではないのか、という気がしてくる。
 意識しなかったものが、いま、見える。
 見えるといっても、それは本当に見えるのか。それは錯覚かもしれない。
 そんなことを感想として書きたかった――と、実際に書いてはいるのだけれど、書きながら、もうひとつ別の感想も書きたい、という気持ちになるのだ。

 最終連の「わけも分からず」。このことばがとても印象に残る。ほんとうは「わかる」のだが、「わかる」にことばが追いつかない。こころは完全に「わけがわかっている」。わかりすぎている。説明の必要がない。でも、ことばが、「頭」が追いつかず、ことばとしてきちんとした形にならない。
 くやしいね。
 そして、そのことばにならないことがらに、最初に書いた「地平線」を「移動させた」が重なる。「不安」を、あのとき「わかっていた」のかもしれない。美しい夢が消えた――というだけではなく、不安の予感が、いま的中した。そのことを認めたくない。そんなこころはないだろうか。

 その、いま書いたふたつの感想を、溶け合わせる形で書けたらなあ、と思うのだが、うまい具合につながらない。


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谷川 俊太郎
東京糸井重里事務所

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