「失われたとき」のつづき。
西脇の音--その美しさは、奇妙に聞こえるかもしれないが「雑音」にある。純粋に研ぎ澄まされた音ではなく、「ノイズ」にある。「ノイズ」の音楽。現代音楽を先取りしている感じである。
十一月は半ばすぎた
オーメ街道の友達を訪ねて
雨のなかに立つているケヤキの木の
しめつぽい存在のなかをうろついた
またかぜをひいているだろうか
果てしない鼻声は
ジュピーテルの神の
耳をそばだたせる
「オーメ街道」とは「青梅街道」だろう。「青梅街道」と書いてしまえば、そこに「ノイズ」はないが、「オーメ」と書いた瞬間に「ノイズ」がうまれる。それは、脳ひっかく音である。「オーメ」というのびやかな「肉体の音」の一方で、その表記は脳に別の刺激を与える。「ノイズ」は脳にも関係している。
「果てしない鼻声」は、「音」そのものをあらわしたものである。それは「美しい」とは一般に言われていない。それも、こんなふうに書かれてしまうと、不思議に脳を刺激する。
意識の乱調がうまれる。
「ノイズ」とは意識を乱すものなのである。
引用部分は、そのあと、
西海岸の紫の波の音に
よく似ている音と怒りだ
とつづいている。「鼻声は」は「よく似ている音と怒りだ」はつづくのかもしれない。つづき具合が、散文論理ではつかみきれない。この、乱調。これもまた、「ノイズ」であり、新しい音楽だと思う。
このあとにも、好きな部分がある。
この倫理学の先生はソクラテスのような
男を使つて桑畑を耕された
「これはわたしのところで作つた茶です」
バケツと鍬がすてられている神々の
たそがれの国について話をうつした
「バケツと鍬がすてられている神々の」の「バケツ」という音、そして存在が、突然の「ノイズ」で、はっとさせられる。意識が強い刺激で叩かれる。
これは、「現実」の音楽である。
西脇は、こういう音楽とは別の音楽も聴いている、ようである。
友達をたずねるだけが天体の音楽だ
友達は柿をむいてくれた
竹藪に四十雀のいることを知らせてくれた
秋の日は終りをつげてくれた
「天体の音楽」。これは、「淋しい」に通じる音楽だろうか。「竹藪に四十雀のいることを知らせてくれた」は「淋しい」。そして、その行のなかの「濁音」の動きは、はてしなく静かな「ノイズ」に、私には感じられる。
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