八柳李花「Swallowtail Butterfly 」ほか | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

八柳李花「Swallowtail Butterfly 」ほか(「Aa」1 、2010年09月発行)

 詩とは何なのか、ある詩と、また別の詩のどこが違うのか。どこに違いを感じて好きになったり嫌いになったり、時には好きになれない、嫌いになれないという変な思いがまとわりついてくるのだろうか。
 私の場合、基本的に「音」である。音読するわけではないのだが、読みやすい「音」と読みにくい「音」があり、私は読みやすい「音」にひかれる。リズム、といった方がいいかもしれない。
 たとえば、八柳李花「Swallowtail Butterfly 」。書き出しが非常に読みやすい。

よくある話をしよう、と
白いモダニズムをゼロ次元に変換すると
砂のなかで私を呼ぶ声がある、

 何が書いてあるのか--その「意味」はわからない。私はわかりたいとも特に考えないのだけれど、まあ、わからない。わからないけれど、この「音」の動きは刺激的である。なんだかわからないものを「ゼロ」の状態に変換すると、砂が残り、その砂のなかに「私を呼ぶ声がある」。この「ある」の「音」が私にはとても気持ちがいい。
 「私を呼ぶ声がする」だとしたら、私は、たぶんぎょっとする。気持ちが悪くなる。--というのは、もちろん、読んですぐに感じたことではなく、どこが気持ちがいいのか読み直したときに「ある」が美しく響いてきたということなのだが……。
 そして、さっき「意味」は関係ない、「音」だけが問題であるというようなことを書いたあとで、それをひっくりかえすようなことを書いてしまうのだが、このとき私は「ある」と「する」の違いについても考えはじめるのだ。
 「話をする」(しようと)、「変換する」という運動の延長線上に「砂」が導き出される。そして、残る。その一連の「変換」(変化)するの「する」を受けて、つまり、その運動に乗っかって、その砂から声が「する」という運動が起きるのはそれほど不自然ではない。むしろ、声が「する」の方が自然かもしれない。
 けれど、「ある」。
 「する」と「ある」は、どこが違うか。「する」は「変化」(運動)であり、「ある」は変化しない、「存在」である。運動のなかから「存在」があらわれてきたのである。そこになっかた、存在が。まず「砂」があらわれ、そしてそこから「声」があらわれ、そこに「ある」。
 運動が断ち切られ、「存在」が「ある」。「ある」が輝いている。「運動」から「存在」への変化と、そのとき生まれる「リズム」(リズムの変化)が、私には「音」が「音楽」に変わる瞬間のように感じられる。
 こういう瞬間を、私は気持ちよく感じる。

よくある話をしよう、と
白いモダニズムをゼロ次元に変換すると
砂のなかで私を呼ぶ声がある、
巻貝のぐるりとした螺旋を痙攣させながら
内耳の方に潤っている、
枯れた水
いくつかの不眠の夜の暗がりで
頭を垂れて思い知った。
何気ない物差しの話とか、
くちびるの端に、いつも
フレーズを求めていたことの。
<わたし>は<わたしたち>から切り出されて
その下にコトリと置かれている。

 ただ、八柳のことばの「リズム」は必ずしも持続しているとは私には感じられない。美しいリズムとそうではないリズムが交錯する。
 
 「白いモダニズム」「砂」「声」と変換し、存在にかわったものが、「巻貝(砂のなかに存在する、あるいは砂ととともに存在する)」「螺旋」「(内)耳」と逆流し、その果てに「枯れた水」になる。それは「私を呼ぶ声」と対になって「不眠の夜」を構成しているのだろう。
 そういう情景は見えてくるが、「枯れた水」以外の行は、私にとっては、何かつっかえつっかえの「リズム」に感じられる。「何気ない物差しの話とか」というすばやい「リズム」があったかと思うと、次に「くちびるの端に、いつも」という重ったるい「リズム」がくる。
 ことばが八柳の「肉体」(喉や耳)を通ってきていないような感じ、その結果として、ことばが「肉体」になっていない感じが残る。--これは、もちろん私の「主観」であって、客観的にどのうこうのとは言えないことなのだけれど。
 そして、書き出しの3行、それからしばらく乱れて「枯れた水」「何気ない物差しの話」というのは美しいのになあ、何か乱れるもの(乱すもの)があるなあ、読みつづけるつらいなあ、と感じてしまうのである。
 私が「乱れ」と感じている部分を魅力と感じるひともいるとは思うけれど……。

 でも、八柳には「フレーズ」をつくりだす力がある。ことばを「学校教科書」から切断し、無のなか(ゼロ次元に変換した場)で、「音」として生成する力がある。
 (あ、「音楽」と私が呼んだものは、これかもしれないなあ。「ゼロ次元」で「音」を生成する、その「音」の生成そのものが「音楽」かもしれないなあ。)
 こういう力は、たぶん学習して身につけるものではなく、学習を放棄することでよみがえらせるもの、生まれもった才能というものかもしれない。そういう力があるということは、おもしろいことだ。
 「(スクリーンのなか、ひとり破裂してやまない輪郭は)」という詩は、タイトルになっている1行が特に魅力的だが、こういうことばをどれだけ持続できるか、そういうことがたぶんこれから八柳にとって重要なことになるのかもしれない。

あおいオウム貝の鉱石をいまの本棚に見つけたひとり遊びは
甚だ優しい物陰のなかに消えて
ステンドグラスを吸い寄せる光が仄明るく
諦めた端から化石化していくので
道端にきたなく散らかった赤い闇をひそめた現像室で拾う、
酢酸くさいほそい指で孤独を数えるのだが
スクリーンのなか、ひとり破裂してやまない輪郭は
さしこまれた熱をもつ無意味に掻き消されておぼろで
白髪の少女が隠す夢を淡く撫でつけている。

 フィルムが現像され、映画として動きだす--その撮影、現像、再現にかかわってくるさまざまなことがら(現像液、現像室など)を貫く何かを、ことばの力でしぼりだそうとしている。そのことは、わかるが、どうにも行が重たい。リズムが重たい。八柳の感覚がふれたものすべてをつかみとろうとする「意図」が忙しすぎて、リズムになりきれないのかもしれない。
 ことばはつかみ取ると同時に、寄ってくるものを時には払いのけなければならないのかもしれない。詩人とは、ことばをつかむひとではなく、もしかすると払いのけるひとかもしれない、とも思った。



 強引な結びつけになるかもしれないが、同じ号に書かれている望月遊馬、高塚謙太郎の詩にも似たものを感じた。ことばをつかみとる力が強すぎて、ことばを払いのける力が弱まっているという感じを持った。
 もちろん払いのけるなんて面倒くさいことはほうっておいて、つかみとれるだけつかみとればいいのかもしれない。手からこぼれて、ことばは勝手に、ことば自身の「量」で、詩人が払いのけられなかったことばを拒絶する時がやってくるだろう。
 望月の「焼け跡」の書き出しだけ引用しておく。

「まずは、ヒトの動作と発現のところにテロップがないように。指をひとつひとつ切り落としていく指揮のなかに、白い肌である金属質の繊維がいくつかたばねてある。そこに灯る火のむこうは、わたしたちの昼夜がじょじょに流砂の骨のかたちで流れていく。

 一方、タケイリエは、ことばをつかむとき、慎重である。慎重な肉体が乱れのない「リズム」をつくりだしている。「midnight press」の1連目。

入ってゆく稜線の奥で
すすんでゆくあしゆびの
爪と肉のさかいめを
さわりながらつかまえるため
草に近づくと赤くなるのに
(どうして入ってゆくのだろう?)



Beady‐fingers.―八柳李花詩集
八柳 李花
ふらんす堂

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ