「失われたとき」のつづき。
次の3行も、とても好きである。
旅人よ汝の名はつかれであり方向がない
路ばたから花咲くハシドイの枝を折り
リラの杖を作つて失われた永遠をさがした
「方向がない」は「漂泊」という意味くらいかもしれない。「漂泊」だと、なんだかセンチメンタルである。センチメンタルによごれている感じがする。それを「方向がない」と「わざと」物理的にいってしまうと、そこに新鮮な風が吹く。空気が新しくなる。
「路ばた」の行の「花咲く」はとても不思議だ。甘ったるい描写に見えるが、この「花咲く」は絵画的な描写ではない。「花咲く」の「は」は「ハシドイ」の「は」。音を誘い込むための「枕詞」である。そしてそれは「路ばた」の「ば」からはじまっている。「路ばた」の「ろ」は「から」の「ら」、「折り」の「り」とつづくことで「ら行」を動かし、次の「リラ」の「り」へつづく。
西脇のことばは、いつでも「音」がひびきあう。音がひびきあうことでリズムと和音をつくる。音楽になる。
「杖を作つて」には「つ」の繰り返しがある。
つづく2行。
ビッコをひいて再びさまよつた
これらのカラフィルムは存在の不幸だ
ここにも「音」の呼応がある。「ビ」っこを「ひ」いて再「び」さまよつた。こ「れ」「ら」のカか「ラ」フィ「ル」ム、「フ」ィルムは存在の「不」幸だ。
「カラフィルム」はもちろん「カラーフィルム」であり、それは西脇が(旅人が)見た風景・存在ということになるのだろうけれど、「空」フィルム、無のフィルムという「誤読」をしてみたい気持ちにさせられる。「存在の不幸だ」は「不在の不幸だ」と、あるとき、突然、文字をかえて目に飛びこんでくる。
「フ」ィルム、「不」幸の「ふ」が「不在」を呼び込み、「不在」が「空」(あるいは、クウと読むべきか)を誘っている。
これはもちろん私の「誤読」だが、そういう「誤読」を私は、きょう読んだ数行を借用して「方向がない」誤読--この「誤読」には「方向がない」と書いてみたい。
もちろん、私の「誤読」にははっきりした「方向」があるのだが、あるからこそ「方向がない」と逆説的にいうのである。
なぜか。
旅人よ汝の名はつかれであり方向がない
この「方向がない」も私には逆説に感じられるからだ。「方向がない」のではない。「方向」ははっきりしている。「音楽」である。そして、その「音楽」は「絵画」の基準に照らせば、「方向」を定義できない。だから、とりえあず「方向がない」というだけなのである。
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