水根たみ『一粒の影』はとても短い詩で構成された詩集である。
たとえば、「不可解な時間」。
猫が
ジャンプする
三角屋根の後から
満月が音をたてて昇ってくる
北向きの窓辺に立つ女
動揺する
この3連目は「北向きの窓辺に立つ女(が)/動揺する」であると「学校教科書」の文法なら主張するだろう。「が」を補わないと「文」として認めてくれないかもしれない。(詩としても認めてくれないかもしれない。)
なぜ、「が」が省略されてしまったのだろう。
「満月が音をたてて昇ってくる」という「事実」に驚いてしまって、ことばが乱れたのである。
ほーっ。
私は、ちょっと感心した。
しかし、感心してうなる、というところまでは行かなかった。「満月の音」が聞こえなかったからである。
「が」が驚きにのみ込まれ、消えていくときの不思議な音は聞こえたが、書かれているはずの「満月の音(昇ってくる音)」が聞こえない。
何か、ことばが不完全燃焼を起こしている感じが残る。
「日没」でも同じことを感じた。
リンゴ色をした夕暮が
ビルの窓から落ちた
限りなく
不透明な音である
「音」ということばは書かれているが、水根は「音楽的詩人」というより「絵画的詩人」なのかもしれない。そこに書かれているのは「絵画」である。
「休憩の時間」。
寒い朝
鳩が一羽
冷気中に潜む
暖を探し当て
〇・一秒
空中に止まる
「運動」ではなく「静止」。「空中に止まる」は「静止」をあらわしている。「静止」も「音楽」のなかにあるけれど、「絵画」はもっと「静止」的である。
水根のことばは対象と出会いながら、一瞬一瞬、静止する。対象と出会って、変化し、その変化に絶えるようにして一瞬静止する。その静止を描く。絵画になる。
たぶん藤富保男だと思うのだが、こういう対象とことばを関係を「帯」で次のように書いている。
対象に目を注ぐときは、事実、現実を輸入する。さて作品化する段に変形して輸出するのは詩の常識である。その加工の妙を水根たみは持っている。
たしかにそうなのだが、私には不満が残る。そこでは「ことば」が簡単に信じられすぎている。
「現代詩」は水根とは逆の操作をする。ことばを輸入し、それを叩き壊す。素材そのものに還元する。そして、そのことばを運動させる。「静止」してはだめなのだ。叩き壊され、エネルギーそのものになった「ことばの原型」が運動していく--そして、そこで鳴り響く「音」が詩なのだ、「現代詩」なのだと、私は感じている。
北向きの窓辺に立つ女
動揺する
に、ふいにあらわれた「消滅の音楽」、その運動が、ことばの運動をもっと刺激すると何かがかわる。そんな予感はするが……。