水根たみ『一粒の影』 | 詩はどこにあるか

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水根たみ『一粒の影』(あざみ書房、2010年09月20日発行)

 水根たみ『一粒の影』はとても短い詩で構成された詩集である。
 たとえば、「不可解な時間」。

猫が
ジャンプする

三角屋根の後から
満月が音をたてて昇ってくる

北向きの窓辺に立つ女
動揺する

 この3連目は「北向きの窓辺に立つ女(が)/動揺する」であると「学校教科書」の文法なら主張するだろう。「が」を補わないと「文」として認めてくれないかもしれない。(詩としても認めてくれないかもしれない。)
 なぜ、「が」が省略されてしまったのだろう。
 「満月が音をたてて昇ってくる」という「事実」に驚いてしまって、ことばが乱れたのである。
 ほーっ。
 私は、ちょっと感心した。
 しかし、感心してうなる、というところまでは行かなかった。「満月の音」が聞こえなかったからである。
 「が」が驚きにのみ込まれ、消えていくときの不思議な音は聞こえたが、書かれているはずの「満月の音(昇ってくる音)」が聞こえない。
 何か、ことばが不完全燃焼を起こしている感じが残る。
 「日没」でも同じことを感じた。

リンゴ色をした夕暮が
ビルの窓から落ちた

限りなく
不透明な音である

 「音」ということばは書かれているが、水根は「音楽的詩人」というより「絵画的詩人」なのかもしれない。そこに書かれているのは「絵画」である。
 「休憩の時間」。

寒い朝
鳩が一羽

冷気中に潜む
暖を探し当て

〇・一秒
空中に止まる

 「運動」ではなく「静止」。「空中に止まる」は「静止」をあらわしている。「静止」も「音楽」のなかにあるけれど、「絵画」はもっと「静止」的である。
 水根のことばは対象と出会いながら、一瞬一瞬、静止する。対象と出会って、変化し、その変化に絶えるようにして一瞬静止する。その静止を描く。絵画になる。
 
 たぶん藤富保男だと思うのだが、こういう対象とことばを関係を「帯」で次のように書いている。

 対象に目を注ぐときは、事実、現実を輸入する。さて作品化する段に変形して輸出するのは詩の常識である。その加工の妙を水根たみは持っている。

 たしかにそうなのだが、私には不満が残る。そこでは「ことば」が簡単に信じられすぎている。
 「現代詩」は水根とは逆の操作をする。ことばを輸入し、それを叩き壊す。素材そのものに還元する。そして、そのことばを運動させる。「静止」してはだめなのだ。叩き壊され、エネルギーそのものになった「ことばの原型」が運動していく--そして、そこで鳴り響く「音」が詩なのだ、「現代詩」なのだと、私は感じている。

北向きの窓辺に立つ女
動揺する

 に、ふいにあらわれた「消滅の音楽」、その運動が、ことばの運動をもっと刺激すると何かがかわる。そんな予感はするが……。

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