誰も書かなかった西脇順三郎(136 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 「失われたとき」のつづき。

パウル クレー パウル クレー
最終のインク
最終の形
最終の色

 こういう数行を読むと、西脇が絵画に強い関心と、西脇自身の鑑賞眼をもっていることがうかがえる。西脇が絵画的詩人と呼ばれるとき、きっとこういう行は「傍証」としてあげられるのだと思う。
 この「絵画的描写」はまだまだつづく。

最終の欲情
ホテルのランチでたべてやせた鶏も
砂漠にのさばるスフィンクスにしかみえない
藪の中にするオレーアディス ペディトゥース!
あいみてののちにくらべれば
セザンヌのこともピカソのことも思わなかった
エビヅルノブドウの線
ツルウメモドキの色
ヤブジラミの点点

 「ホテルのランチでたべてやせた鶏」という意表をついたことばもおもしろいし、「エビヅルノブドウ」云々の植物もおもしろいが、それよりももっとおもしろいのが、

あいみてののちにくらべれば

 である。「来歴」をもっていることば、そして、その「音」である。多くのカタカナにまじって、絶対に(ということはないかもしれないけれど、一般的に言って、絶対に)カタカナでは書かないことばが乱入してくる。それが、ことばの重力場を動かす。それまでつづいていたつながりを切断してしまう。
 切断するだけではなく、遠い「過去」をそこに噴出させる。

 こういう瞬間が、西脇の読んでいて、楽しいと感じるときだ。
 「あいみてののちにくらべれば」ということばのなかに「絵画的要素」が何もないのがいい。「あいみての」の「みて」が目に関係しているから「絵画」につうじるという見方もあるかもしれないけれど、ここでは和歌が、ことばが引用されているのであって、絵画的素材は引用されていない。






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西脇 順三郎
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