北川朱実「住宅展示場の鳥」ほか | 詩はどこにあるか

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青野直枝「室内」、西出新三郎「石ふたつ」、北川朱実「住宅展示場の鳥」(「石の詩」77、2010年09月20日発行)

 青野直枝「室内」は絵を描いている時間を書いている。

制動のきかない雲がゆっくりと流れていて
うつしとった白をそのままにカンバスに描い
た 通り過ぎた鏡に振り返るまでもなく わ
たしは戸の近くにある安楽椅子に腰を下ろし
た 鏡には静物が正しく映し出されている
そこに比喩の猫は球形の夢をみ 対象のどこ
から計っても中心への長さは等しい そんな
世界が鏡の向こうに開けている

 ことばは、なんのためにあるのだろうか。きっと、ことばをもたないもののためにある。たとえば、この詩なら「比喩の猫」。その猫は「対象のどこから計っても中心への長さは等しい」ということばをいいたくて、球形の夢を見ている。その声を青野は聞く。

所有の啼き声でもないのに
あなたは聞いた気がした

 「聞いた気がした」と、そこまで書いて、ひとは、実は自分の声だったことに気がつく。ひとはいつでも「他人」の声を聞きなどしない。いつも自分の声を聞いて、それを「他人」の声だというものなのかもしれない。
 「私」を「他人」にしてしまいたいのだ。「他人」にしてしまわないことには、もちこたえられない。
 そういうことを、ひとは、露骨にはいわない。けれども、そういう時間があるからこそ、ひとは詩を書くのだろう。ことばを書くのだろう。
 そんなことを感じた。青野の詩の前に、西出新三郎「石ふたつ」を読んだせいかもしれない。

ひとつの石が
「おうい」と思ったが
声にはならなかった

もうひとつの石が
「なんだよ」と思ったが
声にはならなかった

 それはまぎれもなく西出の「声」である。「声」を書きとめながら、西出はふたつの石になる。ひとつ、ではなく、ふたつに。そのどれが「私」でどれが「他人」であるか。それはだれにもわからない。

たがいがどれだけ離れているのか
知らなかった
自分たちのいるところが
どこなのかも知らなかった
もちろん
自分たちが何なのかもわからない

 「知らない」「わからない」から書くのである。
 青野も西出も、とくべつ新しいことを書いているわけではない。けれど、そのことばのひびきの中に、自分の中に「他人」をみつけ、それと正直に向き合うときの静かなたしかさがある。

 北川朱実「住宅展示場の鳥」は、自分の中に「他人」を見るというよりも、「他人」のなかに「他人」の「声」を聞く。

きのう
久しぶりに会った友人は
大きな耳になり 口になり

クジラの尾ひれになって
あたりをずぶ濡れにしたあと

ふいに黙った

一瞬の静けさの中で
グラスの氷が
からん、と澄んだ音をたてたけれど

あれは
彼女がのみ込んだ言葉ではなかったか

 「沈黙」のなかのことば。声。それをグラスの氷が代弁する。グラスの氷が崩れ、くっついていたふたつが離れ(西出の「石」のように)、それから重力があるためにぶつかりあう。からん。それを「彼女の声」と北川が感じるとき、その「声」は北川自身のものになる。
 だれも所有していないがゆえに。

 でも、その「からん」は何なのだろう。「からん」が北川を不安にさせる。

展示ハウスの歌壇を
目の上を白くした一羽の茶色の鳥が
いっしんにつついている

--ツグミです
  人なつっこいから絶滅しかかった

もうすぐ
たくさんの海峡を越えて
シベリアへ帰っていく鳥

人ばかり見ていたから
今日まで知らなかった

 「人ばかり見ていた」は、いかにも北川らしいことばである。その「人ばかりみていた」北川が、人を見ながら、人ではない「からん」に出会った。氷の音。そういうものがあるのだ。「他人」のなかに、さらに「他人」がいて、それは声にならない声をあげている。クジラの尾について話す友人が「他人」であるだけではないのである。そのなかに「声」にならない「声」がある。
 そして、その声は「人なつっこい」おしゃべりを繰り返している内、氷のように、消えてしまう。「絶滅」してしまう。それを絶滅させないために、たとえば「沈黙」がある。「沈黙」のなかで響かせる、「絶対的他人(他者)」の「声」がある。
 それは、知っていることばを洗っていく。知っているはずのことばを洗いつくして、ことばを再生させる。
 北川は「他人」のなかに、さらなる「他人の声」を聞き、それを北川自身のなかに組み入れるようにして、北川のことばを鍛え直しながら書く詩人である。
 「三度のめしより(三十一)」で、中上哲夫「川がわるい!」を引用しながらいろいろ書いているが、その「川がわるい!」は中上のことばであって、中上のことばではない。

--そのとき空から声がふってきて
川がわるい!

 「空からふってきて」と書いてあるように、それは中上のなかから生まれたことばではない。「他人」がさらなる「他人の声」を聞いている。その「さらなる他人の声」が、北川にとっての詩--いちばん北川と重なり合うことば、北川自身が発見したかったに違いないことばである。だから、それを引用し、そのことばを中心に北川はことばを点検しなおす。鍛えなおす。北川は、エッセイでは、そういう仕事をしている。


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