たかぎたかよし『夜の叙法』の詩篇は余分なものを含んでいない。ことばが、そのことばの最少のもの、ことばの核へ帰ろうとしている。
「雨、毛虫を刺す」の書き出し。
正午の光の縁りを
今年の蝶
昨年のとも一昨年のとも違ってはいないと見え
日付とか月齢とか 切断について
よく知らないのだ
一匹の昆虫が
時を限って 身の限りの変身を遂げるのに ね
読みながら、「時間」というものについて考えた。時間の推移には区切りはない。もし区切りがあるとしたら、それは私たち人間がかってにつくりあげたものだ。その区切りを、たかぎは「切断」と呼んでいる。そして、たかぎは、そういう人間がつくりあげたものを放棄する。「切断について/よく知らないのだ」というのは、人間が作り上げた「切断」(区切り)を捨て去るということである。そうすると、たとえば蝶から「昨年」「一昨年」という「時間」の区切り(切断)が消え、同時に「違い」が消える。
その結果、あらわれるものがある。
それは「違い」のないもの、「昨年」「一昨年」という違いを消してしまう力があらわれる。それを「時間」の対極にあるもの、たとえば「永遠」と呼ぶことができる。けれど、たかぎはそれを「永遠」ということばでは呼んでいない。
「時」と呼んでいる。しかも「限られた」ときである。つまり、「時間」から「間」(ひろがり)を取り払った「時」、限定された一瞬。
永遠とは「時」なのである。
永遠が、そういう限定されたもの、きわめて小さい核のようなものであるからこそ、それに拮抗するためにたかぎは、たかぎのことばを切り詰めるのだ。「切断について/よく知らないのだ」とは、実は、「切断」が不可能な領域までことばを切り詰めていった詩人だけが語りうることばかもしれない。
「礫」という作品がある。その詩の、後半の方に「切断について/よく知らないのだ」と通い合うことばがある。
その時、草が折れ、露がはね、何かを記そうとしたのだ。もう見るのを止めよ。尸(しかばね)、●(れっか)、どこにどう目をやっても、稲妻が走った。内外定かでなく。
(谷内注・「れっか」と「烈」の文字の下の点4つ、レンカという文字)
「内外定かでなく」。「内外」は連続しながら、同時に「切断」しているものである。接続することで、一方を「内」と呼び、他方を「外」と呼ぶ。そこには「区切り」がある。「切断」が入り込む余地がある。それをあえて「定かでなく」と言い切る。「切断」を拒絶するのだ。しかも、その「内外」の一点を特定するかのように。
どうやって? 何によって?
「何かを記そうとしたのだ」ということばが、たかぎの決意をあらわしている。「ことば」よって、「ことば」を記すことによって。
あらゆる存在、あらゆる運動は、「時」を記す。記すことのできない「永遠」の「一瞬」を。それが不可能であるがゆえに、そこに可能性を感知して。
--ここにあるのは、矛盾である。矛盾であるから、そこに絶対的な詩が存在する。
「詮索宛てなくとも」にも、とても興味深いことばがある。
死者は、いまだに自らの死を知ってはいまいと。
では、死者はいつ死を知るというのか。いったい、死者が死を知るということはありうるのか。死の瞬間、認識も停止する。そこには「知る」という運動は存在しない。
あ、ここが、こういうことが、おもしろい。詩なのだ。
ありえないこと、絶対的不可能も、ことばは書くことができる。それは「誤記」なのか、事実の「誤読」なのか。そして、それは何とつながっているのか。
たかぎの、絶対「ゼロ」とでもいうべき「核」につながっている。それは「よく知らない」何かだ。「よく知らない」けれど、そのくせ「知っている」。そういうものが、ある。そして、それは「ことば」を「ことば」にする運動である。ことばを「ゼロ」に近づけようとするとき、「ことば」は一瞬の内に炸裂し、「全体」になる。詩になる。そういう運動が、たかぎを動かしている。
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