夏の間、西脇について一回も書かなかった。まだまだ夏がつづいているのだけれど(九州では11月になるまで、夏だ)、「夏の路は終つた」という「失われた時」の1行目をたよりに、また書きつづけてみることにする。
カーテンをしめて
失われた時を
考えよ
ぜんそくやみのプルーのように
ただ過去は神経のような根をはつた
暗い庭で混沌としてうす紫になつている
暗い神々のたそがれである
「失われた時」はプルーストの小説のタイトルから借用したものである。だから「ぜんそくやみのプルー」のようなことばがでてくる。ことばは、どうしても「意味」を抱え込んでしまう。西脇においても、である。
けれど、西脇は、そこから逸脱する。
あまりに植物的な植物的である
あまりに葉緑素的な
あいまいな盆地の沼地のくらやみだ
「あまりに植物的な……」はニーチェのもじりだが、その次の行、「あまりに葉緑素的な」の「葉緑素」という音--ここに、私は、つよく西脇を感じる。植物→葉緑素という「意味」のつながりもあるのだけれど、そういう「意味」のつながりではなく、「葉緑素」という音そのものを美しさに西脇を感じる。
「よーりょくそ」。
日常的には存在しない音のつながり。音楽。
そして、このあと詩は次のように展開する。
羅馬の宿で噴水の音にねむられない
あのポールの血統をうけた男も
蟋蟀の音におびえるマクベスも
人間の存在を語る唯一の音を避けた
「音」「音」「音」がつづくのである。「噴水の音」はふつうに使うが「蟋蟀の音」はふつうにはつかわない。日本人ならば。
「葉緑素」ということばを書いたとき、西脇は「音」を強く意識しているのだ。きっと。
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