豊原清明「狼・シュン」 | 詩はどこにあるか

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豊原清明「狼・シュン」(「映画布団」4、2010年08月24日発行)

 豊原清明「狼・シュン」は「短編シナリオ」。詩であろうが、シナリオであろうが、小説であろうが、私はそれを「ことば」としてしか読まない。ジャンルは気にかけない。ことばがどれだけ刺激的であるかだけが問題である。
 豊原は詩と俳句も書いている。どれもおもしろいが、私は、最近シナリオがいちばんおもしろいと感じる。

○ 駅前・切符売り場(日曜日・春)
   大倉山太郎(14)と、吉野健太(15)が、切符を買っている。
   多くの人が、イコカカードや、携帯で、駅の中に入っていく。
太郎「切符の方がいいのにな。」
健太「どっちでもええやないか。」
太郎「あの子、いるかな?」
健太「おるよ、きっと。」

 これは書き出しだが、これだけでドラマがある。何も書かれていないけれど、太郎と健太がいつも日曜毎に切符を買っていることがわかる。いつもいっしょにどこかへ行っている。そして、そこには「あの子」がいる。「あの子」が来る。「あの子」がいつも来ていた。
 その「過去」が見える。
 豊原のことばは、いつでも「過去」を抱え込んでいる。
 「切符の方がいいのにな。」「どっちでもええやないか。」というやりとりは、どうでもええやないか、という感じの台詞だが、そこに二人の性格が見える。性格が見えるといっても、それをいちいちことばにするようなものではないのだが、あるいはことばにならないようなものなのだが、そこに「人間」の「肉体」が見える。その「肉体」というのも、私の定義では「過去」である。
 ちょっと比較してみよう。今回の芥川賞受賞作。赤染晶子「乙女の密告」の冒頭。

 乙女達はじっとうつむいている。静かな教室のあちこちからページをめくる音が響く。日本人の教授は黒板を書く手を止める。さっと後ろを振り向く。教室はしんと静まりかえる。

 ここには「過去」がない。教室で教授が板書し、学生が本のページをめくるのかノートのページをめくるのか、よくわからないが、そういう行為は「日常」であるはずなのに、つまり繰り返されているはずなのに、その繰り返しと、繰り返しの中で動く肉体がぜんぜん見えてこない。
 教授が黒板に文字を書いている間、本の(教科書の)ページをめくるというのも、馬鹿みたいだなあ、と思う。(私は、そんなことをしたことがない。教授が黒板に何か書いているならそれを見ている。あるいは、それをノートに写している。教科書のページなどくらない。)リアリティーがまったくない。
 嘘を書いている、と思ってしまう。これから始まるのは嘘なんだと告げる文章である。
 豊原のことばは違う。それが「つくりもの」であっても、嘘ではない。どのことばも「過去」をもっている。ことばの一つ一つから「過去」が噴出してきている。
 これは、とても衝撃的なことだ。
 太郎と健太は、ストリートでギターを弾きながら歌っている。そこへ、いつものように「あの子」がやってきて、歌を聴く。

   紫の服を着た、女性、山野裕子(20)が太郎と健太の前に来て、微笑している。   太郎、話しかける。
太郎「一寸、喫茶店か、公園行きませんか?」
裕子「ううん。もっと、聴かしてちょうだい。」
   太郎、しつこく話す。裕子、向こうに行く。太郎の靴を踏む、健太。
太郎「つけよう。」
健太「しゃあないやっちゃ。」
   俊二、横から口をはさむ。
俊二「あんさんら、アホか?」
太郎「あんさんもな。」
   太郎と健太、ギターを置いて、つけていく。 

 ここにも書かれていないけれど「過去」が見える。「つけよう。」「しゃあないやっちゃ。」という二人の会話の中に、二人の関係も見える。

 普通(といっていいかどうか、ちっと疑問だけれど)、ことばを書くとき、そのことばの「来歴」というか、「過去」が読者にどれだけわかるか(わかってもらえるか)、とても不安である。状況を書き手はどうしても説明してしまう。
 ところが豊原は「過去」を説明などしない。豊原がことばを書けば、そこに必然的に「過去」が噴出してくる。
 こうした性質をもつことばは、映画、あるいは芝居に最適である。映画も芝居も役者が「過去」を背負って、「過去」を見せる。「過去」を見せながら、未来へ進んでいく。豊原のことばも「過去」を見せながら、未来へ進んでいくという運動をする。

 豊原のことばは完璧である。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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